ザ・ドリフターズのリーダーとして日本中を笑いの渦に巻き込み、後年は渋い俳優として新境地を開拓したいかりや長介(いかりやちょうすけ)さん。
コメディアン色を払拭した味わい深い演技は上手いと評判で、幅広い世代の心をつかみました。
アカデミー賞最優秀助演男優賞に輝いた『踊る大捜査線』シリーズや、共演者・織田裕二さんとのエピソードを紹介します。
いかりや長介のプロフィール
愛称:長さん
本名:碇矢長一
生年月日:1931年11月1日
身長:175㎝
出身地:東京都
最終学歴:静岡県立吉原高等学校定時制課程吉永分校中退
所属事務所:イザワオフィス
いかりや長介の演技は上手いと絶賛の嵐
いかりや長介さんは本名を碇矢長一(いかりやちょういち)さんといい、1931年11月1日、東京都墨田区で生まれました。
ハワイアンやロカビリーなどのバンドを経て1964年にザ・ドリフターズを結成し、『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』で一世を風靡します。
特筆すべきは『8時だョ!全員集合』が収録ではなく、ホールでの公開生放送だったことでしょう。
今考えるとすごいことですね。
同番組は驚異的な視聴率をマークしたお化け番組であり、いかりや長介さんは大ベテランになったあともコントで大量の水を被ったり、一斗缶や金たらいを頭に受けるといった体を張った芸風を貫きました。
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8時だョ!全員集合#475(1979.6.2OA) pic.twitter.com/jCiMLZq96w— あらしくん (@arashi_drif) June 3, 2018
1985年に『8時だョ!全員集合』が終了すると、役者の道を歩み始めたいかりや長介さん。
心血を注いだ番組の終了が逆に心を奮い立たせたことは間違いないと長男の碇矢浩一さんは語っています。
加藤茶さんや志村けんさんが新番組で成功する中、自分もこのままでは終われないという思いもあったでしょう。
俳優デビュー作となった大河ドラマ『独眼竜政宗』での演技については好演と評価する声もありますが、ご本人は自著で「さんざんな出来」と反省。
けれども、まだ『8時だョ!全員集合』が放送されていた頃から、「俳優・いかりや長介」の成功を予見していた人がいました。
作家の小林信彦さんです。
小林さんはいかりやさんの独特のペーソスと完璧主義な性分に注目。
その見立て通り、のちに若者向けドラマでの好演が続き、名脇役としての人気が定着。
70代以降は二本の人気シリーズを抱える俳優となり、作中でみせる法廷での迫力ある演技などが高い評価を受けるように。
余談ですが、芸人の中には俳優として活躍し、演技が上手いといわれる人がたくさんいますね。
いかりや長介さんは俳優業を始めた頃、「演出されることが、これほど心地いいものだとは思わなかった」と述べています。
芸人はコントをする時、ネタだし、脚本、演出、演者をすべてこなしているわけですが、これが少なからず関係しているような気がします。
俳優業の時は演技のみをこなせばよいため集中でき、また演出家や脚本家の気持ちを汲み取りやすいという強みがあるのではないでしょうか。
いかりや長介は『踊る大捜査線 THE MOVIE』でアカデミー賞俳優に
1997年のドラマ『踊る大捜査線』では老刑事・和久平八郎を演じ、『8時だョ!全員集合』を知らない若い世代からも高い支持を得ることに。
演じる役者たちの個性が投影されたかのようなキャラクターづくりも人気の一因だったと思います。
いかりや長介さんは、1999年には『踊る大捜査線 THE MOVIE』で第22回日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を獲得。
受賞のスピーチは控えめなものでしたが、努力が報われた瞬間だったに違いないありません。
この頃から『ドリフ大爆笑』でコントを再び披露するようになっていますから、俳優としてのステータスを確立し、気持ちのうえでも安定したのではないでしょうか。
久しぶりにドラマ『踊る大捜査線』を見た。
当時(10代の俺)は『青島巡査(織田裕二)』に感情移入してたけど、
今(30代の俺)は『室井管理官(柳葉敏郎)』に感情移入してる。10数年後には『和久さん(いかりや長介)』に感情移入するのかな?#踊る大捜査線 pic.twitter.com/iKfsP6YMY3
— 天丼 (@gyu_don1982) July 29, 2020
あきらめるな。願いはきっと実現するから
まぁ、これからどういう世の中になるかわからねぇけどよ。
自分の信念貫いて、弱い者の支えになってやれ。
なんてな。— 踊る大捜査線bot (@WPS_aosima_BOT) August 1, 2020
『踊る大捜査線』シリーズといえば、いかりや長介さんが頸部リンパ節がんとの闘病を経て2003年7月17日に退院し、翌々日の『踊る大捜査線 THE MOVIE 2』の舞台挨拶に立った際の言葉が忘れられません。
「生意気にもお病気、ご入院をしまして、病気は一流、かかった役者が二流でございました」というものでした。
いかりや長介と織田裕二の年齢差を超えた信頼関係
織田裕二さんと初めて一緒に仕事をしたのは『踊る大捜査線』でした。
俳優としては先輩にあたる織田さんに、「この世界は経験序列だから」と言い、演技について教えを乞うていたそうです。
ドラマと映画を通じて7年間、二人は年齢差を超えた信頼関係を築いていたといいます。
2004年3月23日、青山葬儀所で行われた通夜にはザ・ドリフターズのメンバーのほか、踊る大捜査線の共演者である織田裕二さん、柳葉敏郎さん、深津絵里さんらも弔問に駆けつけました。
織田裕二さんは「甘えられる相手がいなくなってしまった」と無念さをにじませて絶句。
しばらく間をおいて、「一度、一緒に飲みたかった」とかなわぬ願いを口にしました。
お酒の席はともにしたことがなかったそうです。
深津絵里さんはショックのあまり取材に応じず、柳葉敏郎さんは目を真っ赤にし、水野美紀さんはうつむいたまま。
共演者たちにとって、これほど悲しい再会はなかったことでしょう。
コメディアンとしてコントで笑わせ、俳優として演技で泣かせたいかりや長介さん。
「オイッス!」という威勢のいい掛け声が今も聞こえてくるようです。
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