若かりし頃はコメディアン、晩年は名優として活躍したいかりや長介(いかりやちょうすけ)さん。
亡くなって年月が経った今も多くの人々に愛され、慕われています。
いかりや長介のプロフィール
愛称:長さん
本名:碇矢長一
生年月日:1931年11月1日
身長:175㎝
出身地:東京都
最終学歴:静岡県立吉原高等学校定時制課程吉永分校中退
所属事務所:イザワオフィス
いかりや長介の性格がザ・ドリフターズを支えていた?
ミュージシャンにコメディアン、俳優と多才な活躍を見せたいかりや長介さん。
特に晩年は俳優として大活躍。
コメディアンとは思えない渋い演技で多くの作品に引っ張りだことなっていました。
いかりや長介さんの名を一躍有名にしたのが「ザ・ドリフターズ」。
今ではコントグループのイメージが強いザ・ドリフターズですが結成当初は本格的な音楽バンド。
そのザ・ドリフターズをコミックバンド路線にシフトしたのがいかりや長介さんなんです。
海外のミュージシャンが演奏に加え、トークもうまい事に衝撃を受けたいかりや長介さん。
その後、自らもコミカルな演奏やトークを行うようになったんだとか。
すると音楽を聴きたいファンとコントを見たいファンと客層が二分されることに。
また、ファンだけでなくメンバー間にも亀裂を生み、数名のメンバーがザ・ドリフターズを脱退。
残ったメンバーと新規加入メンバーにより生まれ変わったザ・ドリフターズ。
すると事務所の先輩である「ハナ肇とクレージーキャッツ」のように音楽もコントも出来るグループとして大人気に。
20本以上もの主演映画が制作され、冠番組の「8時だョ!全員集合」は社会現象に。
音楽バンドとしても日本レコード大賞の大衆賞や日本歌謡大賞の放送音楽賞などを受賞。
最大のヒット曲である「ドリフのズンドコ節」はミリオンセラーとなり、紅白歌合戦に出場した事も。
このようにザ・ドリフターズが国民的バンドとなれたのはいかりや長介さんの英断があったから。
もし本格派の音楽バンドとして活動を続けていたら、これほどの人気とはなっていなかったかも知れません。
コミックバンド路線に舵を切ったいかりや長介さんですが、その性格は真面目そのもの。
何度もリハーサルを重ねるなど、コントにもストイックに取り組んでいたんだとか。
礼節を重んじ、特にメンバーには厳しく接していたそうです。
過激なコントがPTAから批判される事もあったザ・ドリフターズ。
それだけに人間性まで批判されるような事がないように、という親心からだったのでしょう。
ただ、いかりや長介さんが厳しくしていたのはザ・ドリフターズのメンバーだけ。
それ以外の人達には非常に優しく接していたそうです。
いかりや長介の名前が付けられたベース演奏法がある?
ベーシストとしてザ・ドリフターズに加入したいかりや長介さん。
音楽を始めたきっかけはモテたいから。
そのためか音楽活動を始めた当初はギターを担当していました。
そして後にベースに転向。
バンドの中では目立つポジションとは言えないベース。
ですがベーシストの腕前が楽曲の良し悪しを分けると言われる重要なパートです。
グループの屋台骨を支えるいかりや長介さんにピッタリの楽器と言えますよね。
そして今では名ベーシストとしても知られるいかりや長介さん。
きっといかりや長介さんがきっかけでベースを始めた人も多い事でしょう。
そんないかりや長介さんと言えばチョッパー。
いかりや長介さんは日本でチョッパー奏法を行ったパイオニアと言われているんです。
そのためチョッパーは時には「いかりや弾き」、「いかりや奏法」と呼ばれる事も。
日本の芸能界だけでなく音楽会にもその名を残すいかりや長介さん。
このような素晴らしい才能の持ち主は二度と出てこないかもしれません。
愛人に会うために毎年、アフリカを訪れていた?
多彩な事で知られるいかりや長介さんの趣味はアフリカ旅行。
1973年にプライベートで初めて海外旅行をする際に行先に選んだのがアフリカ。
あまり普通の人が行かない所、という理由でアフリカを訪れる事にしたんだとか。
するとアフリカの雄大な自然と大らかな風土に魅了されたいかりや長介さん。
その後は毎年、アフリカを訪れる事がライフワークに。
いかりや長介さんが司会を務めるアフリカ紀行シリーズまで制作されました。
芸能界随一と言えるほどのアフリカ愛を持ついかりや長介さん。
そのため、志村けんさんから「アフリカに大量の愛人がいる」とネタにされた事も。
勿論、これはジョークですがいかりや長介さんが現地の人々と交流を持っていたのは事実。
現地の人達からもとても愛されていたそうです。
観光に訪れるだけでなく現地の人々と積極的に交流を持つのはその国を愛している何よりの証拠。
いかりや長介さんのおかげでアフリカに興味を持った人もきっと多い事でしょう。
神木隆之介はいかりや長介の孫と噂に?
芸能界でまことしやかに囁かれる「子役は大成しない」という芸能界のジンクス。
確かに子役でブレイクした俳優や女優がその後も活躍し続ける事は少ないですよね。
このジンクスは何も日本に限った事ではありません。
ハリウッドでも子役からずっと活躍し続ける俳優は殆どいません。
ただ、最近ではこのジンクスを打ち破り子役の頃から活躍し続ける俳優が徐々に出てきました。
その代表的存在なのが神木隆之介さん。
1995年に2歳でCMデビューすると5歳の頃にドラマデビュー。
2005年に主演を務めた「妖怪大戦争」では日本アカデミー賞の新人賞を受賞するなど早くから俳優としての才能が開花。
そして今ではドラマや映画、舞台だけでなく声優や監督などマルチに活躍。
2023年現在、神木隆之介さんの芸能活動は順調そのものと言えるでしょう。
そんな神木隆之介さんですが実はいかりや長介さんの孫という噂が。
いかりや長介さんの孫であれば多才な活躍も当然と言えるかもしれません。
ですが、二人に血縁関係はありません。
そのため孫というのは誤りですが、いかりや長介さんが神木隆之介さんを孫のように可愛がっていたのは事実のようです。
2000年のドラマ「涙をふいて」で共演したいかりや長介さんと神木隆之介さん。
その後、「いかりや長介 野生のアフリカ大冒険〜8歳の親友と旅する16000km」という特番で共にアフリカを旅しているんです。
これらの共演がきっかけで神木隆之介さんを孫のように可愛がるようになったいかりや長介さん。
そして神木隆之介さんにとっても多才ないかりや長介さんは憧れの人物だったそうです。
神木隆之介さんが今も芸能界の第一線で活躍し続けられるのはいかりや長介さんから色々と吸収したおかげかもしれません。
きっといかりや長介さんも愛情と芸能界で活躍する秘訣を神木隆之介さんに惜しみなく与えた事でしょう。
いかりや長介のおかげで話題となったやわらぎの湯
2003年5月30日に頸部リンパ節癌に罹患し入院する事になったいかりや長介さん。
一時は退院して芸能活動を再開するも、2004年3月20日に癌で帰らぬ人に。
そのいかりや長介さんが癌治療のために通い話題となったのが「やわらぎの湯」。
やわらぎの湯の最大の特徴はラジウムの含有量。
その含有量は同じく癌に効果的と言われる玉川温泉の約5倍にもなるんだとか。
新陳代謝と免疫力向上に効果があると言われるラジウム。
その効果を求めて、いかりや長介さんだけでなく多くの人々が療養のために訪れているそうです。
癌に効くとなれば足を運ぶ人が多いのも納得ですよね。
実際にやわらぎの湯のおかげで難病が改善した、という声もあるようです。
ただ、当然ながら効果は人それぞれ。
必ずしも病が良くなるという事ではありません。
ですが全く効果が無いとも言い切れないのも事実。
藁にもすがる思いの方は訪れてみる価値があるかもしれません。
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