岡本太郎の死因と生き方について。天才の要因は家系?その評価と知られざる経歴

芸術界だけでなく日本中に多大な影響を与えた岡本太郎(おかもとたろう)さん。

太郎さんのおかげで創作活動を始めた若者もきっと多い事でしょう。

岡本太郎の死因となったのは病?

きっと日本人であれば知らない人はいない岡本太郎さん。

数多くの傑作を生み出してきましたが代表作は何と言っても「太陽の塔」。

1970年の大阪万博のシンボルとして制作された太陽の塔。


2020年には国の登録有形文化財に登録されるなど、今でも大阪を代表する観光地の1つとなっています。

また、「芸術は爆発だ」と叫ぶ姿も印象的な太郎さん。

エキセントリックな人柄から「芸術界の異端児」と称される事も少なくありません。

ですが岡本太郎さんが芸術を親しみやすいものにした事は間違いありません。

その代表的なエピソードが「ガラス越しの展示を嫌った」こと。

芸術家の殆どが自らの作品を傷つけられるのを嫌がりますよね。

全身全霊を注いで生み出した作品なので当然と言えるでしょう。

そのため美術館等に展示されるときはガラス等で保護された状態で展示されています。

ですが太郎さんは「傷が付かば自分で直す」とガラス越しの展示を拒否。

しかもそれは美術館等に限った話ではありません。

渋谷のマークシティにある連絡通路にも何も保護がされない状態で作品が展示されています。

きっと太郎さんには「人々に直に作品の伊吹を感じてもらいたい」という思いがあったのでしょう。

それまでは緊張感と敬意を持って接するイメージが強かった芸術作品。

ですが、太郎さんは良い意味でハードルを下げたと言えますよね。

幼いころから絵を描いていた太郎さんは年を重ねても創作意欲は健在。

晩年はパーキンソン病を患いながら創作活動を続けるなど、まさに人生の全てを創作活動に捧げたと言えるでしょう。

そして1996年1月7日にパーキンソン病による急性呼吸不全で死去。

葬儀を嫌った岡本太郎さんの遺志を尊重して葬儀は執り行われず。

その代わりにお別れ会として開催されたのが「岡本太郎と語る広場」。

多くの作品が展示され、多くの参加者が太郎さんに思いを馳せる会となりました。

岡本太郎の芸術家らしい生き方とは

創作活動の傍らバラエティ番組やクイズ番組にも多く出演している岡本太郎さん。

作品異常に作家自身が目立った事も異端児と呼ばれる所以かもしれません。

日本では今も周りと同じ事が正しい、と考える風潮が根強く残っています。

ですが太郎さんが最も大事にしていたのが「人としての自由と権利」。

例え周囲と違ってもそれは人の自由であり、自由に生きる事は権利だ、と考えていたのでしょう。

そのため、これらを邪魔する人や押さえつけようとする人には激しく抵抗をしたんだとか。

きっと岡本太郎さんは周りと違う事に生きづらさを感じる事もあったでしょう。

ですが、この反逆心が創作意欲にもなっていたそうです。

長いもの巻かれる人も多い中、太郎さんの生き方は容易に真似出来る事ではありません。

このような生き方の影には「食えなけりゃ食えなくていい」という覚悟も隠されていたそうです。

芸術家の中には生活のために万人受けしそうな物を作る人もいるでしょう。

ですが、妥協する事なく自信が本当に表現したい物を作り出すのが真の芸術家。

岡本太郎さんの生き方は多くの芸術家の憧れる生き方と言っても過言ではないでしょう。

天才呼ばれるようになった一因は家系にあった?

岡本太郎さんを「天才」と呼ぶことに異論を唱える者はいないでしょう。

それだけの功績を岡本太郎さんは残してきました。

天才と呼ばれるほどの芸術家となったのは、ひたむきな努力があったのも事実。

ただ、少なからず家系も要因となっているように感じられます。

というのも太郎さんの父は有名漫画家の岡本一平さん。


「漫画漫文」というスタイルを生み出し、主宰する「一平塾」から多くの漫画家を輩出。

日本漫画界の礎を築いたと言っても過言ではないかも知れません。

そして母の岡本かの子さんも歌人、小説家として活動。

若いころから歌人として作品を発表した岡本かの子さん。

晩年になってからは小説家としても活動するなど常に強い創作意欲を持った女性でした。

さらに父方の祖父は書家の岡本可亭さんで北王子魯山人の師と言われています。

このように岡本太郎さんの家系は芸術家の家系なんです。

遺伝の影響が大きいと言われる学力と異なり芸術的なセンスに遺伝が関わっているかはまだ不明。

ですが、家族を見ると芸術的な才能も遺伝するのでは、と思えてしまいますよね。

ただ、両親に影響されたのは芸術家としての一面だけでありません。

両親ともに不貞であるだけでなく、母は愛人を同居させる始末。

そのため太郎さんは結婚に対して良い印象を持つことが出来ず。

そして、生涯を通して結婚する事はありませんでした。

今も評価されるのは養女のおかげだった?

両親の影響により結婚を嫌っていた岡本太郎さん。

そのため結婚する事はありませんでしたが、生涯を共にした女性はいました。

その女性の名前は岡本敏子さん。

太郎さん主催の「夜の会」で出会った2人。

この時が初対面でしたが、よほど好印象を抱いたのでしょう。

その後、敏子さんは太郎さんの秘書を務めるようになりました。

敏子さんが私生活でもパートナーとなったのはそれから暫くしてから。

それ以降は公私に渡って太郎さんを支え続けた敏子さん。

ですが、太郎さんが結婚を嫌っていた事から二人が結婚する事はありませんでした。

妻となはらなかった敏子さんですが、太郎さんの養女となっています。

結婚はしなかったものの、岡本太郎さんにとって大切な存在だった敏子さん。

遺産相続の関係もあり、敏子さんを養女としたそうです。

そして太郎さんの死後、その作品を管理するようになりました。

未完の作品を完成させるべく監修を務め、アトリエ兼自宅を岡本太郎記念館に改装して公開。


今では岡本太郎さんが亡くなっても高く評価され続けるのは敏子さんの働きかけが大きいと言われています。

実際に今の若い人の中には太郎さんの影響を受けた人も少なくありません。

ミュージシャンの「OKAMOTO’S」が代表的な存在と言えるでしょう。

敏子さんがいなければ岡本太郎さんの評価はまた違ったものになっていたかも。

戸籍上は妻ではなかったものの、良い伴侶に恵まれたと言える事は間違いありません。

知っていそうで意外と知らない経歴

芸術家の両親の基で生まれ育った岡本太郎さん。

複雑だった家庭環境が影響したのか入学した小学校に馴染む事が出来ずに一学期で退学。

その後、幾つかの学校を転々とした後、慶応義塾大学の幼稚舎に入学。

ここで自身の理解者となる教員に出会えた事で学校に馴染めてクラスの人気者に。

ただ、学校にはあまり行かなかったようで成績は決して良くなかったそうです。

また、幼少期から絵を描く事が好きで良く描いていたという岡本太郎さん。

中学生の頃に「何のために描くのか」という疑問を持ちながらも慶應義塾の普通部を卒業後、東京藝術大学の前身である東京美術学校へ入学。

その後、父が取材で渡欧する際に同行した事がきっかけで約10年間を芸術の都と呼ばれるパリで過ごす事に。

パリ滞在中に目にしたピカソの「水差しと果物鉢」に衝撃を受け「ピカソを超える」事を決意したそうです。

1940年にドイツがパリに侵攻してきた事で帰国の途に就くと日本国内で精力的に活動。

そして、戦後に上野にアトリエを構えた岡本太郎さん。

「絵画の石器時代は終わった。新しい芸術は岡本太郎から始まる」と新聞に発表し大きな話題となりました。

1954年に執筆した「今日の芸術 時代を創造するものは誰か」がベストセラーとなり、1960年代にはメキシコで壁画を制作するなど国内だけでなく海外でも活躍。

そして1970年の大阪万博で太陽の塔を発表した「芸術家 岡本太郎」を確固たるものに。

その後はテレビ番組にも引っ張りだことなりお茶の間の人気者に。


岡本太郎さんを知った事で芸術に興味を持った人は間違いなく多いはず。

異端児と言われながらも日本芸術界に多大な貢献をされました。

岡本太郎さんと肩を並べるような芸術家は二度と出てこないのでは、とさえ思えてしまいます。

関連記事
岡本太郎の妻が養女だった理由。子供はいる?著名な母と父、複雑な生い立ちとは

草間彌生、結婚せず夫はいない。父の放蕩と母の虐待。子供は養子&孫の情報なし

村上隆の年収と資産。 結婚と妻について。弟は何者?&家族まとめ

丹下健三、息子は建築家で孫もいる。弟子の活躍。自邸成城がすごい&岡本太郎との関係

コメント