丹下健三、息子は建築家で孫もいる。弟子の活躍。自邸成城がすごい&岡本太郎との関係

博物館や大使館など名だたる建造物を手掛けた建築家・丹下健三(たんげ けんぞう)。

代表作である、広島平和会館原爆記念陳列館は、重要文化財に指定されています。

今回は丹下について、息子、孫、弟子を紹介し、自邸成城の情報、岡本太郎との関係も見ていきましょう。

丹下健三のプロフィール

本名:丹下健三

生年月日:1913年9月4日

死没:2005年3月22日

身長:不明

出身地:大阪府堺市、中国漢口、愛媛県今治市

最終学歴:東京帝国大学工学部建築科(現在の東京大学)

丹下健三の息子も建築家

まずは丹下健三の息子を見ていきましょう。

息子には1958年生まれの建築家・丹下憲孝さんがいます。

ただし後妻である孝子さんの連れ子ですので、父子の血のつながりはありません。


スイスの寄宿学校ル・ロゼで学び、ハーバード大学視聴環境学を卒業。

ハーバード大学デザイン大学院で修士も終えています。

1985年、父の建築設計研究所に入所し、代表に就任。

同社が丹下都市建築設計に改組したのち、2016年に会長となりました。

新宿にあるモード学園コクーンタワーが代表作として知られています。

コクーンタワーは、父が手掛けた新宿にある都庁ビルと並んで、東京を象徴する建築物ですね。

血はつながっていませんが、父の意志を継ぎ、同じ道で大成したといえるでしょう。

親子でオリンピックに貢献

憲孝さんの仕事で有名なものといえば、東京アクアティクスセンターもありますね。

東京オリンピックの競泳会場となった施設で、飛込やアーティスティックスイミングなども行われています。

憲孝さんが設計に携わったことは、多くの注目を集めました。

父である丹下健三も代々木競技場の設計をしているため、「親子でオリンピックの会場を担当」と話題になったのです。

オリンピックの会場設計に携わるだけでもすごいというのに、親子で参加となると、さらに驚いてしまいます。

憲孝さんが設計でこだわったのは、選手と観客の一体感なのだとか。


それは、父親もやっていたことだそうです。

父の仕事をたくさん見てきた憲孝さんは、そこから得た学びをしっかりと意識していたんですね。

ちなみに、父親からのアドバイスの中には、「本物を見ろ」というものもあったそうです。

丹下健三が手がけた都庁新庁舎の都民広場は、バチカンのサンピエトロ広場を参考にしたもの。

当時は実際にバチカンまで行き、メジャーであちこち計って回ったそうです。

そんな父から教わり、自分でも実際に見ることや体感することを大切にしているという憲孝さん。

東京アクアティクスセンターの設計でも、見ておく必要があるものは、実際に足を運んでチェックしたのでしょうね。

親子のコラボも話題

丹下親子の話題になったエピソードとしては、2022年のコラボを思い浮かべる人も多いかもしれません。

親子のスケッチや模型写真などをぜいたくに使ったシャツが、株式会社グラニフから販売されたのです。

なんともおしゃれなアイテムですね。

2人のファンであれば、このシャツを着た人とすれ違ったとき、思わず目で追ってしまうのではないでしょうか。

とはいえ、世界で高く評価される丹下健三と息子のコラボとなれば、とても豪華なアイテム。

日常生活で普通に使うのは、もったいなく感じることもありそうですね。

複数購入し、実際に使う用と保存用で分けている人もいるのかもしれません。

丹下健三には孫がいる

次に丹下の孫ですが、憲孝さんに娘がいることがわかっています。

一般の方で詳細は不明ですが、アメリカ留学を希望していたそうで、実際に果たした可能性は十分あります。

なぜなら憲孝さんの妻はカリフォルニア出身の女性のため、国際的な家庭であることは確かだからです。

丹下の孫にあたる女性がどんな道に進んだかはわかりませんが、今後活躍する姿が世界に認知される可能性はありそうです。

弟子が名建築家として活躍

丹下の弟子には、列挙できない程、多くの名建築家がいます。

アトリエ建築家の磯崎新さん、思想家としても知られた黒川紀章さんなどが代表的な弟子です。

東京国立博物館の法隆寺宝物館を手掛けた谷口吉生さんも弟子の1人。

美しい美術館を作る名建築家として知られる人物です。

丹下のDNAは家族のみならず、多くの弟子に受け継がれているといえるでしょう。

丹下健三の自邸成城

次に丹下の自邸成城をご紹介します。


名建築家の丹下ですが、住宅を手掛けたことはあまりありません。

数少ない住宅作品の1つが、成城の自邸です。

現存はしていないものの、1953年に竣工した邸宅で、多くの芸術家が集まるサロンでもありました。

1階は柱のみで支えられたピロティと呼ばれる形式で、生活スペースは2階。

階段を上がると玄関があり、畳敷きの部屋が続く構造でした。

欄間に透明ガラスが巡らされ、浮遊感ある屋根が特徴的です。

芸術性と開放感が一体化した、文化人向けのサロンだったのでしょう。

2018年、六本木ヒルズの森美術館で開催された「建築の日本展」で、3分の1サイズの模型が展示され話題となりました。

実用的とはいえない印象の建築物ですが、作品として鑑賞するには見応えのある邸宅だったのでしょう。

丹下健三と岡本太郎の関係

最後に丹下と岡本太郎の関係を見ていきます。


一般的に丹下と岡本は不仲だったとされてきました。

理由は1970年の大阪万博で、岡本による「太陽の塔」が、丹下設計のお祭り広場の大屋根を突き破ってそびえ立ったためです。

京都大学教授の西山夘三と総合プロデューサーを務めていた丹下。

自身の作品を突き破った岡本に対して、怒り心頭だったというのが通説でした。

しかし実際は、自分が岡本に依頼したのだから仕方ないと割り切っていたようです。

大屋根に穴をあけると聞いた瞬間は、もちろん反対したでしょう。

しかし実際に完成した「太陽の塔」を見て、結果的に満足したのかもしれません。

岡本太郎美術館の学芸員・大杉浩司さんは、「地下で過去、地上で現在、大屋根で未来を表している」と述べています。

塔が大屋根を突き破ることで、すべての世界が一体になり、結果的に平和を象徴することに成功したといえるかもしれません。

丹下のような大人物であれば、天才岡本の狙いを理解するのに時間はかからなかったのでしょう。


2人は決して不仲ではなく、ライバルとして互いを認め合っていたのかもしれません。

丹下に影響を受けた建築家たちが、さらに弟子を育成し、偉大なDNAは脈々と受け継がれていくことでしょう。

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