『注文の多い料理店』や『銀河鉄道の夜』でおなじみの童話作家・宮沢賢治(みやざわ けんじ)。
生前は認められず、若くして亡くなったことから薄幸のイメージもありますが、その生涯と生い立ちはどのようなものだったのでしょうか。
さらにスパイだったという情報と、教師時代を含め、経歴についてまとめました。
宮沢賢治のプロフィール
本名:宮沢賢治(正字:宮澤)
生年月日:1896年8月27日
死没:1933年9月21日
身長:推定160cm
出身地:岩手県花巻市
最終学歴:盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)
宮沢賢治の生涯と生い立ち
まずは宮沢の生涯と生い立ちについて見てみましょう。
宮澤政次郎とその妻イチの間に生まれた賢治。
赤痢や発疹チフスを患うなど病弱でしたが、学業成績は極めて優秀だったそうです。
家業は古着屋で、貧しい人から物を買い取り高額で売る、いわゆる質屋だったことを賢治は嫌っていました。
そんな家業に嫌気がさしたことで、勉強にも熱が入らなくなり、一時期は成績が落ち込んだと言われています。
そんな現実から離れるためか、鉱物採集や星座の観察など、自然の中で遊ぶことに熱中していきました。
一方で店番のときは鬱々とした状態だった賢治に、父は家業を継がず学問に専念することを認めます。
喜んだ賢治は猛勉強に励み、現在の岩手大学農学部に首席で合格しました。
同じ時期に日蓮の法華経を読み感銘を受け、のちの作品群には仏教の影響が見られることから、生涯信仰していたことがうかがえます。
『風の又三郎』など多くの代表作から自然愛や郷土愛がうかがえるのは、自然に親しんだ生い立ちが大きく影響しているのでしょう。
とくに鉱物には造詣が深く、「石コ賢さん」というあだ名をつけられたほどで、『銀河鉄道の夜』でも鉱物や地質学の難しい名称が登場しますね。
自然への愛着と宗教からの影響は、宮沢文学に不可欠な要素であり、それを吸収したのが幼少期だったのでしょう。
宮沢賢治はスパイだった?
自然を愛した作家のイメージが先行する賢治ですが、実はスパイだったという驚くべき情報がありました。
一体どういうことなのでしょうか。
小学校の国語教科書にも掲載されている、賢治の代表的な童話『やまなし』。
この中に登場する、「クラムボン」という固有名詞は謎めいていて、長い間研究者の議論の対象となっています。
ネット上の噂によると、2009年にロシア政府が公開した機密文書の中に宮沢賢治、さらにクラムボンというソ連のスパイの名前があったそうです。
セルゲイ=ブレジネフという名前のスパイが使用していたコードネームがクラムボンで、作中にある「クラムボンは死んだよ」は、ブレジネフが暗殺されたことを指すというのが噂の内容。
しかし証拠もなく、デマとしか思えませんが、これだけの憶測を呼ぶほど人々を惹きつけてやまない「クラムボン」という響きは確かに不思議な力を帯びているようですね。
1.クラムボンはソ連のスパイ説。ロシア政府が2009年に公開した旧ソ時代の外交機密文書、その中に宮沢賢治とクラムボンの名前がある。それによれば二人は日本で活動するソ連の諜報員だった。クラムボンとはセルゲイ=ブレジネフのコードネーム。ブレジネフは公安警察によって消されたという暗号。 pic.twitter.com/6ywFc9iYwm
— 七十四夏木 (@n_nanatoshi) February 2, 2018
都市伝説に近い噂ですので、賢治がソ連のスパイとつながりがあった可能性は低いでしょう。
しかし面白い噂であることは確かですね。
ちなみに「クラムボン」の意味として有力なのが、作中に登場する蟹が吐いた泡です。
蟹 = crabの、泡 = bombがクラムボンになったという説は確かに信憑性が高そうですね。
しかし正体不明だからこそ面白みがありますので、あくまで一説としてとらえ、読者それぞれが独自のクラムボンを思い描き続けるのが本来の楽しみ方でしょう。
宮沢賢治の教師の経歴
賢治の実際の経歴ですが、農学校卒業後は岩手県立花巻農学校の教師として勤務していました。
教員時代、「愛国婦人」という雑誌に童話『雪渡り』を掲載し、受け取った5円が生涯唯一の原稿料でした。
教員としての稼ぎは書籍やレコードに消え、家族への仕送りも度々中断。
それどころか借金さえしていたので、趣味に使うためのお金には糸目をつけない人だったことがうかがえます。
今では偉大な作家として多くのファンの心をつかんでいますが、生前はあくまで教師が本業のアマチュア作家だったのです。
しかし現状を変えたいという思いはあったようで、30歳の年に教師を辞め、農業と稲作指導に奮闘し始めました。
その後は病弱な体に鞭打って、仕事に邁進したことが祟り、37歳で肺炎により亡くなったのです。
教師としての仕事には決して満足していなかったからこそ、創作や芸術活動に埋没する傾向にあったのでしょう。
しかし一念発起し農業を始めてからは、奉仕の精神を充足させることができたため、今度は仕事に埋没した人生だったのかもしれません。
いずれにせよ病弱だったため、いちばん本人も望んでいたであろう、作家としての成功を知らずに亡くなったのは惜しまれます。
その悲劇性もまた、ファンの心をつかんで離さない要因でしょう。
今回は宮沢賢治についてご紹介しました。
スパイの噂に現れている通り、後世の人々から常に注目され続ける、偉大な作家と言えますね。
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