宮沢賢治の妹トシの死因とは。子孫、結婚や妻、恋人はいたのか

『銀河鉄道の夜』など、誰もが知る名作を数多く残した作家・詩人の宮沢賢治(みやざわ けんじ)。

『永訣の朝』は早死にしたことで知られる妹トシの臨終を描いた詩ですが、彼女の死因は何だったのでしょうか。

また賢治の子孫、結婚、妻の情報を見ていきつつ、恋人がいたのかどうかもご紹介します。

宮沢賢治のプロフィール

本名:宮沢賢治(正字:宮澤)

生年月日:1896年8月27日

死没:1933年9月21日

身長:推定160cm

出身地:岩手県花巻市

最終学歴:盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)

宮沢賢治の妹トシの死因

賢治の妹トシはなぜ、若くして亡くなったのでしょうか。

賢治より2歳年下のトシは、現在の日本女子大学を卒業後、地元の岩手県立花巻高等女学校(現在の岩手県立花巻南高等学校)で教員をしていました。


賢治には他にもシゲとクニという妹がいましたが、年齢が最も近いトシといちばん仲良しだったそうです。

小学校時代から成績はトップクラスで優秀だったトシ。

真面目な人柄だったそうで、生前認められなかった兄の作品に対してもすばらしい理解者でした。

大学4年生のときに、呼吸器系の疾患を患い、さらに当時流行していたスペイン風邪に罹患しています。

全快したものの、冬に肺炎を患い入院し、帰郷しました。

この時期から体調を崩すことが度々あったそうです。

1921年に喀血したトシは病床に伏し、賢治は農学校で教員をしながら懸命に看病しました。

しかしそれもむなしく、トシは1922年に24歳で亡くなります。

葬儀までの2日間で、賢治は悲しみを浄化させるためか、3つの詩を書きました。

その中の1つが、有名な『永訣の朝』です。

「けふのうちに とほくへ いってしまふ わたくしの いもうとよ」で有名な、東北弁も交えながら妹の死をうたった名作です。

父親と反りの合わなかった賢治にとって、貴重な理解者であるトシを失った悲しみは大きな痛手だったのでしょう。

宮沢賢治の子孫、結婚&妻の情報

次に賢治の子孫、結婚と妻の情報を見てみましょう。

賢治に子供はいなかったので、直接の子孫はいませんが、弟の宮澤清六さんが2001年までご存命でした。

清六さんは兄の臨終前、その原稿を託されており、高村光太郎や草野心平の協力を得て全集出版に尽力しました。

兄の遺品、原稿の整理や保存に生涯をかけて取り組み、空襲による火事で家が全焼した際には、資料を命がけで守っています。

その孫にあたる宮澤和樹さんは、花巻市でカフェ林風舎を経営し、賢治作品の世界観を味わえる装飾などでファンの心をつかんでいます。

賢治自身は結婚せず、妻もいなかったことがわかりました。

仏教に傾倒し、農業や学問を通して人々を救いたいという気持ちから、社会貢献に邁進した賢治。

しかも芸術活動にお金をかけていたそうなので、自分の目的を果たすため働くのに必死で、家庭を持つタイプの男性ではなかったのかもしれません。

しかし弟の清六さんが原稿を守り、子孫も残してくれたおかげで、賢治の息吹を現代人も感じることができるのでしょう。

宮沢賢治の恋人は?


では賢治に恋人がいた時期はあったのでしょうか。

父の政次郎は質屋で、実家は裕福だったため、賢治の妻になりたいという女性も多かったそうです。

しかし、賢治は貧しい人から物を買い取る商売の父に従いたくなかったのでしょう。

裕福な家の商売を継ぎ、妻をめとる可能性も十分ありましたが、その道には進みませんでした。

そして彼が生涯独身を貫いた理由として近年有力視されているのが、盛岡高等農林学校時代の後輩・保阪嘉内という想い人がいたという説です。

2人は親友として文通をしていましたが、実はその内容は恋文に近く、いわゆる賢治は同性愛の感情を保阪に抱いていたのではないかとされています。

しかし日蓮主義の国柱会を信仰していた賢治が、保阪に入信を迫ったことで関係が悪化したようです。

保阪は父親が神道の禊教(みそぎきょう)関係者でしたから、入信を断ったのでしょう。

1921年7月18日に、2人は帝国図書館(現在の国際子ども図書館)で会ったのを最後に、生涯顔を合わせることはありませんでした。

宗教上の問題で言い争った結果の決別とされています。

その後は時間をかけて、2人とも感情が落ち着いたのか、文通を再開。

1925年、賢治は教職を辞して百姓になる決意をしたためた手紙を保阪に送っており、これが最後の文となりました。

保阪の方も農業と教育を通して社会貢献しようと活動していましたので、2人が志す究極の目標は、貧しい人々の幸福な生活を実現することだったという点で共通していたのでしょう。

賢治が亡くなった3年後、保阪も胃がんで40歳の若さで亡くなっています。

保阪は『銀河鉄道の夜』のカンパネルラのモデルとされ、賢治の作品に影響を与え、その心に深く刻まれた存在だったことがわかりますね。


保阪への愛と、別れの悲しみを秘かに抱き続けながら、生涯独身を貫いたのでしょう。

今回は宮沢賢治についてご紹介しました。

短い生涯の中で、様々な別れを経験し、それを作品に昇華した天才作家だったのでしょう。

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