岡井隆、結婚歴は3回で子供5人。病気の過去。死去は97歳&九州への逃避行

内科医でありながら、社会性をはらんだ短歌を多く発表する歌人でもあった、岡井隆(おかい たかし)さん。

やがて前衛短歌の旗手として、戦後短歌界の重鎮となります。

今回は岡井さんの結婚、息子の情報を見ていきましょう。

また病気、死去の詳細と、スキャンダルとして注目された九州への逃避行もご紹介します。

岡井隆のプロフィール

本名:岡井隆

生年月日:1928年1月5日

死没:2020年7月10日

身長:不明

出身地:愛知県名古屋市

最終学歴:慶應義塾大学医学部

岡井隆の結婚歴は3回、子供が5人

岡井さんの結婚歴は3度あります。

最初は1957年、アララギ派の歌人が相手でした。

しかし翌年には別の女性と同棲しており、色男だったことがうかがえます。


さらに12年後、ある女性と九州へ逃避行し、結婚しました。

89年には、NHK学園の講師として海外旅行に行った際、30歳以上年下の絵画講師・新見恵理子さんと出会いました。

98年に結婚した2人は、年の差結婚の先駆けとなった夫婦といえそうです。

結婚歴3回で妻が4人の理由

岡井さんには、妻が4人いました。

32歳年下の妻が4人目です。

しかし、前述のとおり結婚歴は3回。

結婚の回数と配偶者の人数が合わない理由は、事実婚にあるようです。

最初の妻と別れたあと、翌年に同棲していた女性とは、厳密には結婚していないのだとか。

結婚届を出していないため、法律上は夫婦ではなかったというわけです。

とはいえ、同棲していたなら、周囲の人には夫婦のように見えていたことでしょう。

ちなみに、入籍しなかった理由については、よくわかっていないようです。

詳しいことは不明ですが、最初の妻と別れたばかりの岡井さんには、何か思うところがあったのでしょうか。


驚くほど結婚と離婚を繰り返した岡井さんなので、常人には想像もつかないような理由があったのかもしれませんね。

結婚歴について書いた本

結婚歴や同棲については、2011年に出版された著書『わが告白 コンフェシオン』に書かれています。

本を読んで初めて結婚歴を知った人は、あまりの内容に驚いたことでしょう。

ですが、本の中では自身の罪についても語っているようです。

きっちり離婚してから再婚しているなら、法律上の問題はないはず。

しかし、妻子を捨てて別の女性と生活していることは事実です。

事実婚も含めて計4回の結婚歴を考えると、罪の意識がないという想像もできるわけですが、実際は違ったのかもしれませんね。

子供は5人いる

子供は最初の妻との間に娘が1人、翌年同棲した女性との間にも娘が1人います。

また逃避行の相手とも息子2人、娘1人をもうけているので、計5人です。

次々に結婚相手を変えた岡井さんに対して、複雑な思いを抱いている可能性は高いでしょう。

ちなみに、5人の子供たちについて詳しい情報はありません。

岡井さんは詳細を公表していないようです。

歌人の子供となれば、同じ道へ歩むこともありそうですが、子供たちがそんな活躍をしている様子はありません。

おそらく、一般人として普通の生活を送っているのでしょう。

それでも、父親の影響を受けているとすれば、短歌や詩に関係した仕事をしているとも考えられます。

ただ、前述のとおり複雑な気持ちを抱いている可能性もあるので、父に関係しそうな仕事は逆に避けたかもしれませんね。

岡井隆の病気、死去の詳細

次に岡井さんの病気、死去の詳細を見ていきます。

穂村弘さんとの対談によると2014年、鼠径(そけい)ヘルニアの手術をしていたそうです。

鼠径ヘルニアはいわゆる脱腸です。

鼠径部から、腸など内臓が飛び出た状態をいいます。

鼠径ヘルニアになった際、岡井さんは医師ということもあり、自身の病状を客観的に把握したようです。


そして死期が近いことを悟り、「この部屋から 本がことごとく消え去る日 意外に早かろうぜ 雪降る」と詠みました。

死期が近いという考え通り、6年後の2020年7月、心不全により92歳で死去。

医師としての感覚をも作品に盛り込めるのは、岡井さんならではの強みだったのでしょう。

岡井隆の九州逃避行

最後に岡井さんの九州逃避行をご紹介します。

前衛短歌の第一人者として活躍する傍ら、北里研究所の病院で内科医として勤務を続けていた岡井さん。

しかし42歳になった1970年の夏に突如辞職。

そして約20歳年下の女性と共に九州へ出奔するのです。

歌人としての活動、家庭、病院での勤務などあらゆることを捨てて、九州で隠遁生活を送ります。

5年間は音沙汰がなく、世間的には消息不明の状態だったそうです。

生死もわからない中、歌人の塚本邦雄さんが作品を通して呼びかけるなど、歌壇に与えた衝撃が大きかったのは間違いありません。

隠遁期間に何をしていたかというと、先述の通り共に出奔した女性と結婚し、3人の子供をもうけています。

しかし結婚生活は長く続きませんでした。

そんな中、岡井さんの弟は宮崎県にいた兄を見つけ出し、医者として復帰することをすすめます。

こうして福岡県にある県立遠賀(おんが)病院で、医者の仕事を再開しました。

九州時代、短歌こそ一切発表しませんでしたが、病院勤めには復帰していたことがわかりましたね。

肺結核の患者を受け持っていたという岡井さん。

ハードな仕事に思えますが、全てを振り出しに戻して、新しく仕事を始めた清々しさに満足していたそうです。

73年には歌集『鵞卵亭』を出して、歌人としても復帰し、5年に及ぶ隠遁生活を終えます。

その後、名古屋の母が胃がんと診断されたのをきっかけに、地元の愛知県へ戻りました。

74年からは国立豊橋病院に勤務し、母の死を経て、89年に退職。


その後は京都精華大学人文学部の教授となりました。

失踪は一大スキャンダルとなりましたが、本人としては自身の人生をやり直すのに不可欠な選択だったのでしょう。

スキャンダルなど話題性に事欠かない、歌壇の異端児だったのでしょう。

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