内科医でありながら、社会性をはらんだ短歌を多く発表する歌人でもあった、岡井隆(おかい たかし)さん。
やがて前衛短歌の旗手として、戦後短歌界の重鎮となります。
今回は岡井さんの結婚、息子の情報を見ていきましょう。
また病気、死去の詳細と、スキャンダルとして注目された九州への逃避行もご紹介します。
岡井隆のプロフィール
本名:岡井隆
生年月日:1928年1月5日
死没:2020年7月10日
身長:不明
出身地:愛知県名古屋市
最終学歴:慶應義塾大学医学部
岡井隆の結婚歴は3回、子供が5人
岡井さんの結婚歴は3度あります。
最初は1957年、アララギ派の歌人が相手でした。
しかし翌年には別の女性と同棲しており、色男だったことがうかがえます。
さらに12年後、ある女性と九州へ逃避行し、結婚しました。
89年には、NHK学園の講師として海外旅行に行った際、30歳以上年下の絵画講師・新見恵理子さんと出会いました。
98年に結婚した2人は、年の差結婚の先駆けとなった夫婦といえそうです。
結婚歴3回で妻が4人の理由
岡井さんには、妻が4人いました。
32歳年下の妻が4人目です。
◇岡井隆の秀歌 ㉗ 第六歌集『歳月の贈物』(昭和53年、1978年 50歳)より
かぞへ切れなくなるあやまちの原点にかぎろふ家は成子(なるこ)坂上(ざかうへ)
(岡井隆は4人の女性と契ったが、最初の女性を回想しての歌。)あやとりのやうにこころをからませて一組のこの男女は沈む
— 奥村晃作 (@okumura80kousak) August 7, 2021
しかし、前述のとおり結婚歴は3回。
結婚の回数と配偶者の人数が合わない理由は、事実婚にあるようです。
最初の妻と別れたあと、翌年に同棲していた女性とは、厳密には結婚していないのだとか。
結婚届を出していないため、法律上は夫婦ではなかったというわけです。
『短歌研究』九月号の岡井隆追悼特集。篠弘へのロングインタビューが出色。岡井が二人目の妻とは結婚届は出さず、三番目の妻となつた女と九州に逃避行したこと等々。「夢に村上(一郎)さんが出てきて、叱られた」と手紙に書いたのはこの頃か。歌会始選者就任に係る幸綱の時評を再録。雰囲気が伝はる。
— 中性脂肪伯爵@執筆依頼のない相模原の蔵書家w (@kaz0406naka) September 1, 2020
とはいえ、同棲していたなら、周囲の人には夫婦のように見えていたことでしょう。
ちなみに、入籍しなかった理由については、よくわかっていないようです。
詳しいことは不明ですが、最初の妻と別れたばかりの岡井さんには、何か思うところがあったのでしょうか。
驚くほど結婚と離婚を繰り返した岡井さんなので、常人には想像もつかないような理由があったのかもしれませんね。
結婚歴について書いた本
結婚歴や同棲については、2011年に出版された著書『わが告白 コンフェシオン』に書かれています。
風邪気味で胸痛があるので、今日はツレに食事の支度も任せて、ぼんやり読書。岡井隆さんの『わが告白』。 pic.twitter.com/h8sYsHWb97
— 早坂類 (@Hayasakarui) November 16, 2015
岡井隆『わが告白』読了。自身の女性関係についてや、医学と文学についても、率直に回想されている。歌会始の選者になった時は批判されたそうだ。原発については、原子核からエネルギーを取り出すという、人類の科学の歩みは一概に否定できないとしている。この辺は理科系の吉本隆明さんと似ている。
— 松山愼介 (@sin_matsuyama) June 2, 2012
本を読んで初めて結婚歴を知った人は、あまりの内容に驚いたことでしょう。
ですが、本の中では自身の罪についても語っているようです。
「わが子について書くときでも、何となく自己正当化の匂いがして恥ずかしい。罪は罪なのである」。本書では罪障感という言葉が繰り返し書きつけられる。罪とは、いかにしても贖われない、取り返しがつかないからこそ罪なのだろう。岡井隆『わが告白』
— nobody (@_mwys) January 7, 2012
きっちり離婚してから再婚しているなら、法律上の問題はないはず。
しかし、妻子を捨てて別の女性と生活していることは事実です。
事実婚も含めて計4回の結婚歴を考えると、罪の意識がないという想像もできるわけですが、実際は違ったのかもしれませんね。
子供は5人いる
子供は最初の妻との間に娘が1人、翌年同棲した女性との間にも娘が1人います。
また逃避行の相手とも息子2人、娘1人をもうけているので、計5人です。
次々に結婚相手を変えた岡井さんに対して、複雑な思いを抱いている可能性は高いでしょう。
ちなみに、5人の子供たちについて詳しい情報はありません。
岡井さんは詳細を公表していないようです。
歌人の子供となれば、同じ道へ歩むこともありそうですが、子供たちがそんな活躍をしている様子はありません。
おそらく、一般人として普通の生活を送っているのでしょう。
それでも、父親の影響を受けているとすれば、短歌や詩に関係した仕事をしているとも考えられます。
ただ、前述のとおり複雑な気持ちを抱いている可能性もあるので、父に関係しそうな仕事は逆に避けたかもしれませんね。
岡井隆の病気、死去の詳細
次に岡井さんの病気、死去の詳細を見ていきます。
穂村弘さんとの対談によると2014年、鼠径(そけい)ヘルニアの手術をしていたそうです。
鼠径ヘルニアはいわゆる脱腸です。
鼠径部から、腸など内臓が飛び出た状態をいいます。
鼠径ヘルニアになった際、岡井さんは医師ということもあり、自身の病状を客観的に把握したようです。
そして死期が近いことを悟り、「この部屋から 本がことごとく消え去る日 意外に早かろうぜ 雪降る」と詠みました。
死期が近いという考え通り、6年後の2020年7月、心不全により92歳で死去。
医師としての感覚をも作品に盛り込めるのは、岡井さんならではの強みだったのでしょう。
岡井隆の九州逃避行
最後に岡井さんの九州逃避行をご紹介します。
前衛短歌の第一人者として活躍する傍ら、北里研究所の病院で内科医として勤務を続けていた岡井さん。
しかし42歳になった1970年の夏に突如辞職。
そして約20歳年下の女性と共に九州へ出奔するのです。
歌人としての活動、家庭、病院での勤務などあらゆることを捨てて、九州で隠遁生活を送ります。
5年間は音沙汰がなく、世間的には消息不明の状態だったそうです。
生死もわからない中、歌人の塚本邦雄さんが作品を通して呼びかけるなど、歌壇に与えた衝撃が大きかったのは間違いありません。
隠遁期間に何をしていたかというと、先述の通り共に出奔した女性と結婚し、3人の子供をもうけています。
しかし結婚生活は長く続きませんでした。
そんな中、岡井さんの弟は宮崎県にいた兄を見つけ出し、医者として復帰することをすすめます。
こうして福岡県にある県立遠賀(おんが)病院で、医者の仕事を再開しました。
岡井隆さん2
…歌集や歌誌の原稿まで押収された」とかつて本紙の取材に語った▼家庭や名声をかなぐり捨て、若い女性と九州へ逃避行したのは40代。有名歌人の「蒸発」は騒動を招く。だがその女性とは長続きせず九州の病院で働く事に。〈女とは幾重にも線条(すぢ)あつまりてまたしろがねの繭と思はむ〉— houzou1947 (@houzou1947) July 11, 2020
九州時代、短歌こそ一切発表しませんでしたが、病院勤めには復帰していたことがわかりましたね。
肺結核の患者を受け持っていたという岡井さん。
ハードな仕事に思えますが、全てを振り出しに戻して、新しく仕事を始めた清々しさに満足していたそうです。
73年には歌集『鵞卵亭』を出して、歌人としても復帰し、5年に及ぶ隠遁生活を終えます。
その後、名古屋の母が胃がんと診断されたのをきっかけに、地元の愛知県へ戻りました。
74年からは国立豊橋病院に勤務し、母の死を経て、89年に退職。
その後は京都精華大学人文学部の教授となりました。
失踪は一大スキャンダルとなりましたが、本人としては自身の人生をやり直すのに不可欠な選択だったのでしょう。
スキャンダルなど話題性に事欠かない、歌壇の異端児だったのでしょう。
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