斎藤茂太の息子、妻について。北杜夫との関係、母は大病院の令嬢。斎藤病院について

精神科医で随筆家でもあった、斎藤茂太(さいとう しげた)さん。

偉大な歌人、斎藤茂吉の長男でした。

『無理せず、苦労せず、楽しく生きるコツ』や『いい言葉は、いい人生をつくる』など人生をテーマとした書籍を残しています。

今回は茂太さんについて、息子、妻の詳細に迫りましょう。

また「どくとるマンボウ」シリーズで知られる作家、北杜夫さんとの関係を確認します。

さらに母親、「斎藤病院」の情報にも迫ります。

斎藤茂太のプロフィール


愛称:モタさん

本名:斎藤茂太

生年月日:1916年3月21日

死没:2006年11月20日

身長:不明

出身地:東京都

最終学歴:慶應義塾大学大学院医学研究科博士課程

斎藤茂太の息子

まず茂太さんの息子について見ていきます。

息子は、精神科医の斎藤章二さんです。

幼少期は父から厳しくしつけられたため、父のことは怖い存在として認識していたといいます。

ただ親子そろって、大の飛行機マニアだったため、飛行機の話になると2人で盛り上がったようですね。

茂太さんは旅客機に関する著書を多く発表し、旅客機の専門誌に登場したこともあります。

また日本航空のCMに出演したこともありました。

自宅には、小型飛行機に付いていたプロペラの実物や、日本航空ファーストクラスの座席が飾られていたそうです。

そんな家庭で育った章二さんが、飛行機マニアになったのは、当然の成り行きでしょう。

章二さんはかつて、航空自衛隊の「ブルーインパルス」機体塗装デザイン公募に応募し、見事に採用されました。

SNS上では章二さんを、「ブルーインパルスの塗装デザイン採用者」として認知している人は多いようです。

斎藤茂吉の子孫が、意外な形で航空業界に貢献していたことがわかりましたね。

斎藤茂太の妻は?

次に茂太さんの妻について見ていきます。

妻は美智子さんという女性でした。

1999年には夫婦を特集した、NHKBSの番組「夫婦の時間 お小言ありがとう~斎藤茂太・美智子夫妻の56年~」が放送されています。

同番組によると、茂太さんは常に手帳を携帯するほどのメモ魔だったそうです。

残した手帳の数は150冊以上で、メモ内には頻繁に美智子さんの言葉が登場します。

「ミチコ語録」として妻の言葉をまとめることで、妻の思いやりと自身の至らない点を痛感していたとのこと。

妻が夫を気遣って発する「お小言集」ともいえる「ミチコ語録」。

一般的な男性なら、妻から色々な言葉をかけられると、つい「うるさい」と拒絶する場合もあるでしょう。

しかし茂太さんは、妻の「お小言」をまとめ、言葉をかけてもらえるありがたみを感じていたようです。

美智子さんは2006年に夫が亡くなった際、葬儀の喪主を務めました。

60年以上の歳月を共に過ごした、おしどり夫婦だったのでしょう。

斎藤茂太と北杜夫の関係

茂太さんにとって、小説家の北杜夫さんは弟にあたります。

茂吉の長男として生まれた茂太さんは、精神科医という家業を継ぎながら、職務の合間に随筆を執筆。

一方で北さんは、次男の気楽さからか、兄よりはだらしない性格でした。

親の期待があったため、当初は精神科医になるものの、結果的に小説家が本業になっています。

株取引で破産したことや、出版社にお金を前借りしようとしたこともあり、兄ほど実直ではなかったようです。

そんな兄弟の様子がうかがえる映画が、北さん原作の映画『ぼくのおじさん』。

ぐうたらな大学非常勤講師の姿を、甥の目線から描いた作品で、主演は松田龍平さんでした。

おじさんは北さん、甥は章二さんがモデルです。

劇中でおじさんは、兄の家に居候していますが、実際に北さんはかつて茂太さんの家に居候しています。

慶應義塾大学病院の神経科で助手を務めていた時期、無給だったため、兄の家に住まわせてもらっていたのです。

だらしない自分をユーモラスに描き、しっかり者の兄と対比させた、ほのぼのストーリー。

映画は2016年公開で、時代設定は現代だったものの、台詞の大部分が北さんの原作に沿ったものでした。

したがって、現代人が昭和風の言葉遣いで話すため、ややちぐはぐな印象がある映画です。


しかし今どき珍しい、あたたかな人情噺として、一見の価値ある作品でしょう。

茂太さんと北さんの関係性に興味のある人にとって、入門映画といえるかもしれませんね。

母は大病院の娘

茂太さんの母は、茂吉ファンの間では有名な、輝子という女性でした。

天真爛漫で奔放な人生を歩んだことで知られています。

大病院の娘に生まれ、学習院女子部で学ぶという、典型的な令嬢育ち。

不自由を知らず、わがままに育ったため、茂吉と結婚してからは夫婦で衝突することも多かったようです。

ダンスホールでダンス教師と遊興に明け暮れ、新聞でバッシングされたこともあります。

世に言う「ダンスホール事件」ですが、これをきっかけに夫婦は一時別居しました。

しかし後年、茂吉が衰弱すると、輝子は献身的に介護したそうです。

気丈な性格で、弱い相手にはきちんと手を差しのべる人だったとのこと。

また行動力があり、80代でエベレストやアンデスを歩いたといいます。

結果的に世界108か国を巡りました。

1984年に亡くなるまで、破天荒に生きた輝子。

もしかしたら茂太さんは、「とても母のようには生きられない」と思いつつも、少しは憧れていたかもしれませんね。

斎藤茂太の斎藤病院

茂太さんはかつて、精神科専門の「斎藤病院」院長として活動していました。

2023年現在は、息子の章二さんが理事長を務めています。

斎藤病院は、東京都府中市浅間町(せんげんちょう)にあり、入院施設も備えた精神科専門の病院。

自然に恵まれた庭があり、落ち着いた雰囲気の建物です。

起源は明治36年に開設された「青山脳病院」。

開業当初は、茂太さんの祖父である齋藤紀一が院長を務めていました。

以来、斎藤家三代にわたって院長を歴任し、移転や改称を経て今に至っています。


趣ある建物のため、斎藤茂吉ファンの人々も、外観を見ようと訪れているかもしれませんね。

人生をテーマとしたエッセイで、多くの読者の心をつかんだ茂太さん。

弟の北さんより知名度は劣る分、精神科医としての職務を果たし、患者と家族を支えた人生だったのでしょう。

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