若尾文子、黒川紀章との再婚と子供。菅原謙二に当てつけ結婚の噂とは

大映の看板女優として、名だたる巨匠の名作や文芸映画に数多く出演した若尾文子(わかおあやこ)さん。

およそ50年前、若尾さんがバツイチになったことを知っている人はどれくらいいるでしょうか。

2007年に死別した夫・黒川紀章さんは再婚相手ということになりますが、初婚の夫はどんな男性だったのでしょう。

前夫と結婚した理由として取り沙汰される「菅原謙二」なる人物は誰なのか、また若尾文子さんに子供はいるのかについても調べました。

若尾文子のプロフィール

本名:黒川文子

生年月日:1933年11月8日

出身地:東京府東京市豊島区(現:東京都豊島区)

最終学歴:宮城県第二女子高等学校(現:宮城県仙台二華高等学校)中退

若尾文子と黒川紀章の特別な絆

若尾文子さんと黒川紀章さんは、日本を代表する女優と建築家として知られています。

二人の出会いから結婚、そして長年にわたる関係性は、多くの人々の関心を集めてきました。

運命的な出会いから築かれた深い絆

若尾さんと黒川さんの出会いは、テレビ番組での対談がきっかけでした。


黒川さんは若尾さんの印象を「バロック美術のよう」と表現し、その美しさに強く惹かれたといいます。

この出会いから、二人の関係が始まりました。

しかし、二人の交際には障害がありました。黒川さんには当時妻子がおり、すぐには離婚できない状況でした。

そのため、若尾さんと黒川さんは7年間の同棲生活を送ることになります。

この期間、二人は互いの気持ちを確かめ合い、絆を深めていったのでしょう。

  • テレビ番組での対談がきっかけで出会う
  • 黒川さんが若尾さんを「バロック美術のよう」と表現
  • 7年間の同棲生活を経て結婚

結婚後、若尾さんは黒川さんの仕事に合わせて海外を転々とする生活を送りました。

この間、彼女は自身の芸能活動を一部セーブし、主に舞台を中心に活動していました。

これは、夫婦としての絆を大切にしながらも、自身のキャリアを継続しようとする若尾さんの姿勢が表れています。

興味深いのは、2000年以降、二人が別居生活を送っていたという点です。

しかし、これは決して仲違いを意味するものではありませんでした。

黒川さんは若尾さんを「国の宝」と称し、自分一人で独占することはできないと考えたのです。

この決断は、互いの仕事と個性を尊重し合う、成熟した夫婦関係の表れと言えるでしょう。


別居中も、二人は毎日連絡を取り合い、若尾さんは手作り弁当を黒川さんのもとへ届けるなど、心の繋がりを大切にしていました。

この行動からは、物理的な距離を超えた深い愛情が感じられます。

若尾さんと黒川さんの関係は、従来の夫婦像にとらわれない、新しい形の関係性を示しています。

互いの才能を認め合い、尊重し合う姿勢は、現代の夫婦関係にも示唆を与えるものだと言えるでしょう。

二人の関係は、働く40代同士の結婚の意義を示す好例として、メディアでも取り上げられました。

互いの個性と仕事を尊重しつつ、深い絆で結ばれた理想的な夫婦像として、多くの人々の心に残っています。

若尾文子の子供に関する事情

若尾文子さんの華やかな芸能生活の裏には、子供に関する様々な事情があります。

ここでは、若尾さんの子供に関する情報を詳しく見ていきましょう。

若尾文子さんの結婚と子供の有無

若尾文子さんは、これまでに2度の結婚を経験していますが、子供はいません。

最初の結婚は西館宏幸さんとでしたが、この結婚は長く続かず離婚に至りました。

1984年には前述のとおり黒川紀章さんと再婚しましたが、黒川さんとの間にも子供は生まれませんでした。

若尾さんと黒川さんの間に子供がいない理由については、明確には語られていませんが、仕事や人生の目標を優先した結果であると考えられます。

  • 2度の結婚を経験するも、子供はいない
  • 黒川紀章さんとの結婚は7年間の同棲を経て実現
  • 仕事と人生の目標を優先した結果、子供を持たなかった可能性が高い


若尾さんは、黒川さんとの結婚後も精力的に芸能活動を続けました。

子供がいないことで寂しさを感じたかどうかは定かではありませんが、若尾さんは自身の仕事や人生の目標に精力を注ぎ、夫婦でお互いを尊重し合う関係を築いていたと言われています。

この選択は、彼女の長きにわたる芸能活動を支える一因となったのかもしれません。

若尾さんの生い立ちを見ると、5人兄弟の末っ子として生まれ、戦時中は宮城県仙台市に疎開するなど、波乱に富んだ少女時代を過ごしています。

このような経験が、後の芸能活動や家族観に影響を与えた可能性も考えられます。

現在、若尾文子さんは90歳を迎えていますが、子供や孫の話題は聞かれません。

しかし、長年の芸能活動を通じて多くのファンや後輩たちから慕われ、芸能界の大先輩として尊敬を集めています。

子供はいなくとも、彼女の演じた数々の役柄や、芸能界に残した足跡は、多くの人々の心に刻まれているでしょう。

若尾さんの人生は、子供を持つことよりも、芸術や仕事に情熱を注ぐことを選択した一例と言えるかもしれません。

この選択は、個人の価値観や人生の目標によって異なるものであり、若尾さんの場合は、芸能活動を通じて多くの人々に感動を与えることで、自身の人生を充実させてきたと考えられます。

西舘宏幸との結婚は菅原謙二への当てつけ婚?

前述のとおり、1963年に商業デザイナーの西舘宏幸さんと最初の結婚をした若尾文子さん。

大映の看板女優だった彼女が西舘さんと出会ったのは1959年の春で、場所はパリ。

まだ海外渡航が自由化されていなかった当時、若尾さんは各映画会社の女優たちとともにドイツで開かれる映画祭に出席するため渡欧。

ヨーロッパ訪問の最後に立ち寄ったパリでガイドを担当したのが西舘さんでした。

西舘宏幸さんの経歴を簡単にまとめると、東京大学文学部を卒業後、商業デザイナーを夢みてパリの美術学校に留学。


生活費を稼ぐために時おり日本人旅行客のガイドを務めていたそうです。

帰国後に文通がスタートし、若尾さんは3年後に再びパリへ。

二人で旅行したローマで西舘さんのプロポーズを受けました。

完璧に私の理想の男性とのろけていた若尾文子さん。

しかし結婚生活はまもなく破綻し、1968年、離婚が未成立のまま離婚を発表。

離婚を渋る夫に業を煮やした若尾さんが既成事実を作るために開いた離婚会見といわれています。

離婚劇は泥沼化して調停に発展し、結局、夫に1000万円の慰謝料を払って翌年に離婚が成立。

ここで誰もが気になるのが、不貞を働いたわけではない若尾さんがなぜ慰謝料を払ったのかということです。

当時の1000万円は、公務員の初任給で比較すると、2020年代では約7000万円。

いわゆる高額の「手切れ金」を払ってでも、とにかく別れたかったのではないかとみる向きが強いですね。

西舘宏幸さんとの離婚の理由については、夫側からも妻側からもはっきりした説明はありませんでした。


よくわからないのが破局に至った真相です。

格差婚もひとつの原因と推測できますが、わかっているのは数回会っただけで若尾さんが結婚を決めたこと。

結婚を急いだ理由としてささやかれているのが菅原謙二さんの存在です。

菅原謙二(菅原謙次とも)さんは1951年に大映から映画デビューし、二枚目スターとして数多くの映画に主演した俳優。

菅原さんの主演映画に若尾さんは相手役として出演しており、ともに勉強会も立ち上げていました。

二人は同じ大映の俳優であり、恋人同士だったのですが、会社に無理やり別れさせられることに。

ヨーロッパ訪問は、その直後のことでした。

帰国した若尾さんは菅原さんの結婚を知って愕然とします。

西舘宏幸さんとの結婚は、本当のところは女性としてのプライドを傷つけられた若尾さんの当てつけ結婚だったのではないかと考える関係者も多いようです。


あでやかな和服姿の美しさから海外でも人気が高い若尾文子さん。

日本映画の衰退とともにスターたちがテレビや舞台に軸足を移すなか、孤軍奮闘した大女優でもありました。

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