黒川紀章の息子、倒産後の活動。妻・若尾文子とは再婚。弟も建築家&都知事選直後に死去

一級建築士で思想家、日本芸術院会員でもあった黒川紀章(くろかわ きしょう)さん。

「中銀カプセルタワービル」で有名な建築家ですが、晩年に多く出演したバラエティ番組で認知した人も多いのではないでしょうか。

今回は黒川さんについて、息子、妻の若尾文子さん、弟の情報を見ていきます。

また都知事選に立候補した際の詳細も確認しましょう。

黒川紀章のプロフィール

本名:黒川紀章(くろかわ のりあき)

生年月日:1934年4月8日

死没:2007年10月12日

身長:不明

出身地:愛知県海部郡蟹江町

最終学歴:東京大学大学院工学系研究科

最終所属事務所:黒川紀章建築都市設計事務所

黒川紀章の息子、倒産の過去も活動継続中

黒川さんには一男一女がいます。

息子は実業家の黒川未来夫(みきお)さん、娘は陶芸家の黒川かこさんです。

未来夫さんは父の個人事務所である、黒川紀章建築都市設計事務所の社長になっています。

しかし父の死から7年後の2014年に倒産し、新会社へ事業譲渡されました。


黒川さんの代表作で1972年に竣工の「中銀カプセルタワービル」は老朽化が進み、2022年に解体されています。

偉大な建築家の子息は、遺産の大きさを負担に思うことも多いかもしれませんね。

息子・未来夫、倒産後の活動まとめ

2014年の倒産により、日本工営へ事業を譲渡した未来夫さん。

詳しい経緯は不明ですが、2017年からは「MIRAIKUROKAWA DESIGN STUDIO」の代表取締役に就任しています。

スタジオの公式サイトで扱われている事業は、長野県にある「カプセルハウスK」での宿泊業です。

1973年に完成した「カプセルハウスK」は、紀章さんが別荘として設計したものでした。

事務所の倒産により一時は人手に渡っていたそうですが、2019年に未来夫さんが買い戻して修繕。

工学院大学建築学部の鈴木敏彦さんと一緒に、保存活用を行うプロジェクトがスタートしています。

2024年現在は民泊として利用されており、雑誌などの撮影に使われることもあるそうです。

未来夫さんは、スタジオの代表として紀章さんの作品を保存しつつ、その魅力を広める活動をしているのでしょう。

ちなみに、昔の未来夫さんは写真家や美術家だったこともあります。

その時代を知っていて、会社の代表取締役より写真や美術の印象が強い人もいるようです。

また、専門学校の講師を務めていたこともあるのだとか。


近年も、日本デザイナー学院など、有名な学校で講演をすることもある未来夫さん。

講師時代の経験が、こうした仕事で活かされているのかもしれません。

趣味のサイクリングをいかしたイベント

私生活の情報は少ない未来夫さんですが、趣味のサイクリングを長年続けていることがわかっています。

その趣味を知っている人なら、2024年の「BROMPTON CULTURE RIDE」にスペシャルゲストとして招かれたのは納得の出来事でしょう。

このイベントは、東京にあるメタボリズム建築の建物を、未来夫さんと一緒に自転車で見て回るというもの。

折りたたみ自転車で有名な「BROMPTON JAPAN」が主催しています。

素人からするとそこそこ疲れそうなイベントですが、普段から自転車移動に慣れている未来夫さんなら問題なさそうです。

同じ自転車好きで、なおかつ建築にも興味がある人なら、これはとても貴重な機会ではないでしょうか。

それにしても、しっかり体を動かしている未来夫さんは、かなり体力があるのかもしれません。

適度な運動は健康維持にもつながるはず。

2024年で59歳の未来夫さんですが、まだまだ元気に活躍してくれそうですね。

妻・若尾文子とは再婚

次に黒川さんの妻で女優の若尾文子さんについてです。

1950年代から60年代にかけての日本映画黄金期、260本以上の映画で主演を務めた大映のスター女優でした。

人気絶頂の1963年に、デザイナーの西館宏幸さんと結婚しますが、69年に離婚。

黒川さんとの出会いは、1976年、中部日本放送の番組「すばらしき仲間」での対談でした。


「君はバロック美術のよう」という建築家らしい言葉で、黒川さんが若尾さんの美しさを賛美し、彼女の心をつかみます。

バロック美術は、左右対称の美が特徴なので、若尾さんの目鼻立ちが均等に整っていることを表現したのです。

しかし当時の妻は、子供が成人するまでは離婚を承諾しなかったので、再婚まで7年かかりました。

2人とも50歳を超えていたので、子供はいません。

再婚後、若尾さんは世界を巡る黒川さんに同行を望みます。

そこで映像作品への出演数を抑え、スケジュール調整できる舞台をメインに活動するようになりました。

しかしお互いの仕事の時間帯があまりに違うため、若尾さんは自宅、黒川さんはホテルで別居生活を送ります。

それでも若尾さんは夫のためにお弁当を作るなど、距離を保ちながらも相思相愛の中だったようです。

黒川さんは膵臓がんが発覚しても、妻に心配をかけないよう明かしませんでした。

2007年に夫が亡くなると若尾さんは、がんのことは最後まで知らなかったため、悲しみに暮れたようです。

距離を保ちながらも、気遣い合い、愛し合っていたことがうかがえますね。

夫が亡くなる2日前に、「あまりいい奥さんじゃなかったね」と言った若尾さん。

すると「そんなことない。本当に好きだったから」という答えが返ってきたそうです。

これが夫婦の最後の会話でした。

最初の結婚でうまくいかなかった者同士、いたわり合いながら生活していたのでしょう。

黒川紀章の弟は建築家

次に黒川さんの弟を見ていきます。

弟には黒川雅之さんと、黒川喜洋彦さんがいます。

雅之さんはグッドデザイン賞や毎日デザイン賞を受賞した経験のある、建築家兼アーティストです。

ゴムを使ったインテリア小物「GOMシリーズ」は、ニューヨーク近代美術館の永久コレクションに認定されています。

専任教授を務めていた金沢美術工芸大学で、2010年に芸術の博士号を取得しました。


喜洋彦さんはクランブルック・アカデミー・オブ・アート建築学科で修士号を取ります。 

ケビンロ-チ・ジョンディンケルー建築事務所や岡田新一設計事務所を経て、黒川建築事務所に勤務。

その後は社長に就任しました。

黒川兄弟の父である黒川巳喜も建築家でしたから、建築界のサラブレッドたちということになりますね。

黒川紀章の都知事選

最後に黒川さんの都知事選出馬の詳細を見ていきます。

2007年に共生新党を結党し、4月の東京都知事選挙に出馬した黒川さん。

7月参院選にも立候補しますが、いずれも落選しています。

討論会では東京オリンピック招致に反対するなど、積極的に発言していた黒川さん。

さらに東京都全体を自らの理想郷にデザインしたいという、大胆な計画も練っていたようです。

妻の若尾さんも当初は反対したものの、夫の情熱に押されて、街頭演説に立ち会いました。

落選ののち、わずか数ヶ月で亡くなった黒川さん。


もしかすると自分の死を予期し、やりたいことを全部やっておこうと、落選前提で立候補したのかもしれませんね。

女優の妻に支えられ、自らの情熱を貫き通した人生だったのでしょう。

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