5千円札の肖像として親しまれてきた、樋口一葉(ひぐち いちよう)。
お札に顔が載るほどの偉人ですが、具体的にどんな人物で、何を成し遂げたのでしょうか。
今回は樋口一葉が何主義なのか、何をしたのか確認します。
また性別、性格、なぜお札の肖像になったか見ていきましょう。
樋口一葉のプロフィール
本名:樋口奈津
生年月日:1872年5月2日(明治5年3月25日)
死没:1896年11月23日
身長:推定140cm前半
出身地:東京府(現在の東京都)
最終学歴:私立青海学校(せいかいがっこう)
樋口一葉の主義とは
一葉は『たけくらべ』や『にごりえ』などの名作文学を執筆した、明治を代表する小説家です。
文豪は「自然主義」や「写実主義」など、作風によって異なる主義に分けられます。
では一葉は、何主義だったのでしょうか。
一葉は24歳の若さで結核により亡くなっており、文壇で確固たる地位を築けぬまま世を去りました。
そのため一葉文学を、何らかの主義に分類するのは難しいのです。
あえて分類するならば、「ロマン主義」に属するかもしれません。
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28日(日)深夜(3月1日(月)午前4時)
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— 頭木弘樹📕UC 新刊『ひきこもり図書館』『食べることと出すこと』4刷御礼 キノベス!7位 (@kafka_kashiragi) February 27, 2021
ロマン主義はヨーロッパで起こった芸術の流れで、恋愛を賛美する点が特徴的です。
一葉作品の多くは、ほのかな恋愛を描いており、「ロマン主義」の名の通りロマンチックな作風でした。
ただ一葉はヨーロッパ文学に影響を受けたわけではなく、文体は当時としても古典的だったといわれています。
つまり一葉は「ロマン主義」ではなく、「ロマン主義風」の作品を発表したといえるでしょう。
明確な主義に分類できない分、他とは異なる独自路線の作家だったと考えてよさそうですね。
樋口一葉は何をした人?
そもそも一葉が、具体的に何をしたのかわからない人もいるでしょう。
一葉はもともと役人の家に生まれ、不自由なく暮らしていました。
しかし父や兄の死によって、17歳で戸主になります。
父が残した借金の返済に加え、母と妹を養うため、針仕事をはじめとした内職に明け暮れました。
しかし近視だったため、目への負担が大きい針仕事ではなく、小説を書いて身を立てようと決意。
朝日新聞の専属作家だった半井桃水に弟子入りし、小説を書き始めるのです。
対馬 半井桃水館
樋口一葉の師であり憧れの人として有名な半井桃水。中学時代の三年間は釜山にあった倭館で語学留学をしており、日本で最初の海外ジャーナリストと言われている。大陸の玄関口として、自国を尊ぶことを忘れず隣国との関係をうまく築き上げていた当時の様子を知り大変勉強になりました。 pic.twitter.com/88YJIzM0ti— 〜対馬の祈り〜日本の祈りを歌いつなぐ 祥子 (@shokotsushima) December 15, 2019
以降は必死に小説を書きながら、吉原遊郭の近くに駄菓子店を開業。
吉原周辺の子供たちの様子を観察し、代表作『たけくらべ』に活かしました。
千束稲荷神社(台東区)#たけくらべ の作中で「千束神社」として登場する #千束稲荷神社 さま。千束神社の夏祭りにおいて、ヒロインの美登利は長吉に罵倒されたうえ泥草履を額にぶつけられます。#樋口一葉記念館 をきっかけに思わぬ #たけくらべ の聖地巡礼となりました😊#御朱印#樋口一葉 pic.twitter.com/oggfxVfju2
— 和 (@Kazma_M13) October 25, 2018
生活は苦しかったものの、気丈に小説を書き続け、駄菓子店でも働いた一葉。
同じくお札に描かれた福沢諭吉のように、大学を設立したわけでも、野口英世のように医学界に貢献したわけでもありません。
しかし一葉作品のファンは、作者のささやかな生き方を思い、強く胸を打たれるのでしょう。
樋口一葉の性別
一葉の性別がわからない人もいるようですが、一葉は女性です。
本名は「樋口奈津」で、「なつ」や「夏子」という表記も好んで使っていたそうです。
ペンネームの「一葉」は、ある伝説が由来といわれています。
インドの達磨大師は足がないため、一枚の葉っぱに乗り、中国へ渡ったと伝えられているそうです。
生活に困窮していた一葉は、「私にもお足(お金)がない」と語り、達磨伝説にちなんで「一葉」とつけました。
貧乏を逆手に取った彼女はもしかすると、ユーモアで苦しい生活を乗り切ろうと考えていたのかもしれません。
樋口一葉の性格
一葉は非常に向学心の高い女性でした。
「女性に学問は不要」とされていた明治時代にありながら、勉強や読書に夢中だったそうです。
父は娘の短歌の才能を認め、歌人・中島歌子が主宰する歌塾「萩の舎」へ入門させています。
生徒は華やかな令嬢ばかりでしたが、一葉はコンプレックスを抱きながらも、歌の才能では周囲を圧倒していました。
作家になってからも、暇さえあれば歌を詠み、読書にふけることを生きがいに暮らしていたのでしょう。
貧しくとも折れずに生き続けた彼女の原動力は、「これからも色々なことを学びたい」という強い向学心だったのかもしれません。
なぜお札の肖像に?
生前はお金に縁がなかった一葉ですが、2004年に5千円札の肖像に選ばれた理由は何でしょう。
なんとびっくりしたニュース⚠️#2024年 から、#一万円札 が #福沢諭吉 から #渋沢栄一#五千円札 が #樋口一葉 から #津田梅子#千円札 が #野口英世 から #北里柴三郎
新しい人の名前も覚えなあかんな。
諭吉さん、樋口さん、野口さんって呼べなくなるんなんか寂しい、、、。😂#紙幣のデザイン pic.twitter.com/fpbKPlAiv5
— Rina Aoi – 蒼莉奈 (@R_1021smile) April 9, 2019
お札の肖像に女性が選ばれるのは、明治14年(1881年)の神功皇后(じんぐうこうごう)依頼2度目でした。
おそらく男女平等を進めるため、女性をお札の肖像に描く必要性を、国は感じていたのでしょう。
しかし平塚らいてうや与謝野晶子のように、政治的な発言が多い女性では、思想的に偏りが出てしまいます。
したがって、思想や信条とは無縁の、純粋な文学者である一葉が選ばれたのでしょう。
何より女性初の本格的な職業小説家としての業績は大きいはず。
多くの人に感動をもたらしてきた彼女の作品と、気丈な生き方は、お札の肖像にふさわしいでしょう。
2024年に5千円札の肖像は、津田梅子に変更されます。
津田塾大学創立者である梅子に比べ、一葉の業績は目立たないかもしれません。
しかし彼女のささやかながら力強い生涯は、今後も多くの人に感動をもたらし続けるでしょう。
樋口一葉の死因は結核。子孫と結婚、家系図について。家は旧居跡として公開
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