新渡戸稲造は何をした人&功績とは。国際連盟の活動。フィンランド、台湾との関係

かつて5千円札の肖像として知られていた新渡戸稲造(にとべ いなぞう)。

丸メガネに口髭をたくわえた肖像を見たことがある人は、まだ多いでしょう。

今回は新渡戸が具体的に何をした人なのか、功績をまとめます。

また国際連盟での活動、フィンランドと台湾との関係に迫ります。

新渡戸稲造のプロフィール

幼名:新渡戸稲之助

生年月日:1862年9月1日(文久2年8月8日)

死没:1933年10月15日

身長:不明

出身地:陸奥国岩手郡盛岡城下(現在の岩手県盛岡市)

最終学歴:帝国大学(現在の東京大学)退学

新渡戸稲造は何をした人?功績まとめ

お札の肖像になるほどの偉人だった新渡戸は、何をした人なのでしょう。

新渡戸は岩手県盛岡市で、森岡藩主の御用人だった新渡戸十次郎の三男として生まれました。

5歳で父を亡くし、9歳の頃に、東京で洋品店を経営していた叔父の養子に入ります。

13歳で東京英語学校に進学したのち、キリスト教思想家の内村鑑三に影響され、西洋文化に関心を抱きました。

そして、かつて農業開発に貢献した父の遺志を継ごうと、札幌農学校に入学。

農学校では全員がキリスト教に入信する義務があったため、新渡戸は洗礼を受け、クリスチャンとなりました。

農学校卒業後は現在の東京大学に進学するものの、レベルが低いと感じたため、アメリカのジョンズ・ホプキンス大学へ留学。

現地で出会ったメアリー・エルキントンと交際し、のちに結婚しました。

以降はドイツに留学し、ベルリン大学やハレ大学で農政学や統計学を学び、哲学の博士号を取得。

帰国後は母校の札幌農学校で教授を務めました。

また現在の東京女子大学で、初代学長となっています。

彼の大きな功績は、アメリカで日本の宣伝本である『武士道』を執筆したことです。

当時は珍しい国際人として、武士の精神を海外へ伝えた功績が、今でも高く評価されています。

流麗な英文で描かれた『武士道』はセオドア・ルーズベルトやジョン・F・ケネディなど歴代大統領からも絶大な支持を受けました。

同書で新渡戸は、外国人が「野蛮な行い」と考えていた「切腹」について、「自分の誠実さを自らの命で証明する手段」と解説。

日本人固有の価値観を海外に広め、わかりやすく説明したのです。

『武士道』によって、西洋人にとって差別の対象だった日本人イメージが高まったといえます。

国際的には「理解不能で野蛮な民族」だった日本人への誤解を解いた点で、新渡戸の功績は大きいでしょう。

新渡戸稲造の国際連盟での活動

新渡戸の功績は『武士道』執筆だけではありません。

『武士道』の作者という肩書だけでは、お札の肖像になるほどの偉人とはいえないでしょう。

第一次世界大戦後、再度の戦争を避けるための国際的組織「国際連盟」が生まれます。

国際連盟の事務次長として、日本を代表し選ばれたのが新渡戸でした。

かつて国と国とをつなぐ人材である、「太平洋の架け橋」になりたいと語った新渡戸にふさわしい肩書です。

しかし当時、日本は第一次世界大戦に際し、山東省のドイツの利権を継承しようと紛争を起こしていました。

国際協調より利益を重視する日本に、世界は厳しい視線を送っていたのです。

新渡戸は日本のイメージを改善しようと尽力しますが、うまくいきませんでした。

国内の右翼からは批判され、海外からは日本を擁護しているように見える彼の態度を叩かれます。

また国際連盟の規約に人種差別の撤廃を導入しようと提案し、過半数の支持を集めましたが、結局否決されてしまいました。

1926年、疲弊した新渡戸は、7年間務めた国際連盟事務次長を退任します。

当時、日本は過激な右翼が暴走していた時代。

新渡戸は「軍閥が日本を滅ぼす」と語り、右翼から命を狙われていました。


彼は日本と海外諸国の板挟みとなり、居場所を失っていたのです。

もはや新渡戸が理想とした古き良き「武士道精神」は、崩壊していました。

1933年、ついに日本は国際連盟を脱退し、国際的に孤立します。

同年の秋、新渡戸はカナダで開催された「太平洋問題調査会会議」に出席。

しかし会議終了後、西岸ビクトリアで出血性膵臓炎を起こし入院。

10月15日に72年の生涯を終えました。

日本代表として戦争を回避しようと尽力しながら、自身の身体に負担をかけ続けた結果、死期を早めてしまったのかもしれません。

フィンランドとの関係

新渡戸はフィンランドと縁が深い人物です。

国際連盟の事務次長時代、フィンランドとスウェーデンがオーランド諸島の領有権を巡り争っていました。

これに対し新渡戸は、「オーランド諸島はフィンランドが統治、言葉や文化はスウェーデン式」と定めます。

「新渡戸裁定」と呼ばれる画期的なやり方は、両国を満足させ、戦争を回避できました。

新渡戸のお陰でオーランド諸島は、平和を体現する理想的な島として知られていきます。

オーランド諸島の住民は、「新渡戸さんが島を平和にしてくれた」と語り、彼に敬意を表しているそうです。

国際連盟を失意のうちに退任した新渡戸でしたが、実は大きな功績を挙げていたのです。

日本ではあまり知られていない彼の功績がもう少し広まり、国際紛争解決に活かされることを願います。

台湾との関係

新渡戸は、日本統治時代の台湾とも深く関係していました。

台湾で民政長官だった後藤新平に説得され、39歳の時に台湾総督府の技師となります。

農業を学んだ新渡戸は、「農業の基礎」こそ、理想的国家に不可欠と考えていました。

彼は半年かけて島を徹底調査した結果、台湾の殖産興業を支えるのは製糖業だと確信。

台湾産のサトウキビは収穫量が少なかったため、新渡戸は品種改良の意見書「糖業改良意見書」を提出。

そして外国から品種を導入し、在来種と切り替えることで、品種改良を成功させます。

地道な努力により1902年には約5万トンだった製糖の生産量が、1925年に48万トンに達するのです。

そして最盛期には年間で100万トン以上を生産。

台湾の製糖産業は、国を繁栄させ、日本人の消費にも大きく貢献したのです。

新渡戸は1903年に、京都帝国大学の教授となるため帰国しますが、以降も台湾の農業を指導し続けました。

台湾は製糖業が発展し、今でも国を支える要となっています。

台湾が製糖業で繁栄する土台を築いたのは、他ならぬ新渡戸だったのです。

『武士道』の著者、大学学長、国際連盟事務次長、そして台湾の農業指導者。

新渡戸の肩書と功績は、一言ではまとめられません。


少なくとも5千円札の肖像にふさわしい、偉大な人物だったことは間違いないでしょう。

いつか彼の生涯が大河ドラマになり、より多くの人に認知され、国作りのヒントが生まれる日が来るかもしれませんね。

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