島崎藤村の家系図。父の発狂と投獄。家族と生い立ち、生家は記念館に

自然主義の代表的作家である島崎藤村(しまざき とうそん)。

今回は有名作家の藤村について、教科書には載っていない素顔に迫ります。

家系図を見ていき、父、家族、生い立ち、生家について確認しましょう。

島崎藤村のプロフィール


本名:島崎春樹

生年月日:1872年3月25日

死没:1943年8月22日

身長:推定154cm

出身地: 筑摩県第八大区五小区馬籠村(現在の岐阜県中津川市馬籠)

最終学歴:明治学院本科(現在の明治学院大学)

島崎藤村の家系図。父は発狂し投獄

まず藤村の家系図から、父について確認します。

島崎家は元々、今の神奈川県横須賀市発祥の一族でした。

木曾義在に仕えていた島崎重綱の代で、木曽谷に移ります。

その後、重綱の長男である島崎重通が、木曽で馬籠を開拓。

中山道にある宿駅として整備し、庄屋や問屋を務めるのです。

藤村の父である島崎正樹は、17代目の馬籠宿当主で、平田派の国学者でした。

四男だった藤村は、国学者の父から『論語』や『孝経』などの古典を学んだそうです。

正樹は幕末の1831年(天保2年)に生まれ、問屋役の間秀矩(はざま ひでのり)から国学を学びます

さらに医師の馬島靖庵から漢学と皇学を学んだのち、私塾を馬籠に開き、弟子に国学を教えました。

村内で3度起きた火災時には、救援活動に尽力して尾張藩より賞されたといいます。

1869年(明治2年)からは、木曽谷にある官有山林を地元へ解放するため奔走しますが、結果的に戸長を罷免されました。

さらに扇子へ「憂国の歌」を書き、明治天皇の輿へ投げたため、不敬罪に問われてしまいます。

徐々に精神を病み、挫折を繰り返した正樹。

ついに発狂して寺院「永昌寺」へ放火し、家中の座敷牢へ入れられました。

そして1886年(明治19年)11月29日に、座敷牢から出ることなく死去。

正樹の不遇な生涯は、藤村の大作『夜明け前』につづられています。

正樹は本来、地元民を思いやる、まじめで優しい性格の人物だったのかもしれません。

そして父が発狂の末に亡くなった事実は、藤村の生涯に暗い影を落としたのです。

家族の不遇の死、壮絶な体験

藤村の家族は、多くが不遇の死を迎えるか、壮絶な体験をしています。

母の縫は、彼が24歳の時にコレラで亡くなりました。

姉の園子は、父と同じく精神を病んだ末に亡くなります。

長兄の秀雄は、木曽御料林に関する私文書の偽造で入獄。

次兄の広助は上京して絵の勉強に励んだのち、朝鮮へ渡っています。

事業に失敗してからは、藤村に金銭的援助を求めたそうです。

さらに三兄の友弥は、母の縫が不倫の末に産んだ子供とされています。

上京したのち横浜で奔放に暮らし、悪性の毒で片足が不自由になりました。

藤村は妻の冬子との間に、三男四女をもうけますが、娘は四女以外が夭折。

長男の楠雄は農業へ従事したのち、「藤村記念館」の顧問になりました。

次男の鶏二は太平洋戦争で戦死し、三男の蓊助は共産主義運動に明け暮れています。

島崎家は、早くに亡くなった人や、一筋縄ではいかない人が多い一族だとわかりましたね。

島崎藤村の生い立ち

藤村は複雑な家庭環境の中で育ちました。

しかし幼少期は、大好きな勉強に励み、楽しい日々を送ったようです。

父から『論語』を教わり、上京後は三田英学校で英語を勉強、今の明治学院大学の前身である明治学院本科に進学。

明治学院はキリスト教の学校だったため、彼も洗礼を受けクリスチャンとなります。

そしてシェイクスピアをはじめとした西洋文学を読みつつ、西行や芭蕉といった日本の古典にも親しみます。

異常な家庭環境にありながら、10代の頃は、勉強という楽しみによって精神を支えていたのかもしれません。

島崎藤村の生家

藤村は今の岐阜県にある馬籠で生まれました。

生家の「馬籠本陣」は現存していませんが、跡地に「藤村記念館」が建っています。

木曽谷の最南端に位置する記念館で、貴重な藤村関連資料を6千点以上も所蔵。

常設の展示室では、処女詩集の『若菜集』から、絶筆となった『東方の門』までの自筆原稿を展示。

訪れた人々は、馬籠が生んだ文豪の生涯を辿ることができます。


藤村は複雑な家庭に育ちながら、決して折れることなく、文豪として名を残しました。

馬籠の人々にとって、藤村は全国に自慢できる郷土の偉人なのでしょう。

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