小泉八雲の子孫。息子と孫、家系図まとめ。夏目漱石との縁とは

ギリシャ出身の小説家で民俗学者の小泉八雲(こいずみ やくも)。

「耳なし芳一」や「雪女」などの昔話をまとめた、『怪談』の作者として有名です。

わずか54際で亡くなりましたが、子孫は今でもいるのでしょうか。

今回は八雲の子孫、息子、孫、家系図に迫ります。

併せて夏目漱石との不思議な縁についてご紹介します。

小泉八雲のプロフィール


本名:パトリック・ラフカディオ・ハーン

生年月日:1850年6月27日

死没:1904年9月26日

身長:推定160cm弱

出身地:レフカダ島(現在のギリシャ領)、アイルランド

最終学歴:ダラム大学セント・カスバーツ・カレッジ(のちのアショウ・カレッジ)

小泉八雲の子孫

まず八雲の子孫について見ていきます。

八雲の曾孫にあたるのが、1961年生まれの民俗学者、小泉凡(ぼん)さんです。

成城大学大学院の博士前期課程を修了し、民俗学者となりました。

研究対象は、曽祖父である「小泉八雲」です。

幼少期は偉大な曽祖父の存在をあまり意識していなかったそうですが、大学院時代に読んだ八雲研究の論文に感銘を受けます。

八雲から四代目と血筋が離れており、客観的な研究対象として最適という理由からも、八雲研究を進めてきました。

また曽祖父が育ったアイルランドの、ケルト文化に関する研究にも取り組んでいます。

島根県立大学短期大学部の教授や、小泉八雲記念館の顧問も務めるなど、民俗学研究の第一線で活躍している研究者です。

さらに八雲から五代目の玄孫にあたるのが、アイルランド在住の守谷天由子(もりや あゆこ)さん。

自身のブログで八雲の子孫であることを明かしました。

きちんとルーツを知ったのは28歳の時だったそうで、祖母から話を聞かされたといいます。

守谷さんは八雲が、アメリカと日本で働いていたことを知り、彼を自身と同じ「旅行好き」と考えました。

そして八雲のように自分も世界を回ろうと、2年かけて旅費を貯め、30歳の時に世界一周を実行。

八雲の育ったギリシャやアイルランド、彼が働いていたアメリカへも赴いたそうです。

守谷さんは彼の足跡を巡るうちに、八雲の大叔母が暮らしたアイルランドの海辺町「トラモア」に辿り着きます。

そしてトラモアで、夫となる男性に出会ったのです。

祖先ゆかりの土地で人生のパートナーを見つけるとは、まるで映画のようにすてきな話ですね。

夫は2015年にトラモアで開園した「ラフカディオ・ハーン・ジャパニーズ・ガーデンズ」の職員とのこと。

「ラフカディオ・ハーン・ジャパニーズ・ガーデンズ」は、八雲の生涯を庭で表現した庭園です。

まさに八雲がつないだ縁といえますね。

小泉八雲の息子と娘

八雲は妻セツとの間に、三男一女をもうけました。

長男の小泉一雄さん、次男の稲垣巌(いわお)さん、三男の小泉清さん、長女の小泉寿々子さんです。

1893年生まれの一雄さんは、事務職、ホテルマン、教員などを経て、最終的には父と同じく書籍を出版しています。

10歳の時に亡くした父について、記憶を頼りに、『父「八雲」を憶う』につづりました。

八雲はいかにも欧米の紳士らしく、女性に優しかったそうです。

しかし一雄さんは、10歳までホームスクーリングで父から直接勉強を教わった際、厳しくしつけられたといいます。

とはいえ父のことを愛していた一雄さんは、幼くして突然父と死に別れ、悲しみに暮れたそうです。

思い出の中の父について書き残すことは、悲しみの浄化作業だったのかもしれません。

次男の稲垣巌さんは、1897年生まれで、もっとも顔が父親似のハンサムでした。

温厚な一雄さんに比べ、非常に積極的で物おじしない性格だったそうです。

1901年に母の養家へ養子に入り、「稲垣」姓を名乗ります。

京都帝国大学文学部英文科(現在の京都大学)を卒業後は、京都桃山学園中学の英語教師となりました。

ユーモアあふれる授業は人気で、かつて人気の教師だった八雲のDNAを濃く受け継いだことがうかがえます。


また『小泉八雲全集』の翻訳にも従事しました。

残念ながら、がんにより40歳の若さで亡くなりますが、八雲作品の保存に大きく貢献した生涯でした。

三男の清さんは、東京美術学校西洋画科(現在の東京藝術大学)に入学するも、胸を患い中退。

その後はヴァイオリン弾きとして映画館で演奏しながら、絵の制作を継続。

鮮烈な色遣いが特徴だった絵の才能は、高名な美術史家の会津八一にも認められるほどでした。

新興日本美術展では読売賞を受賞し、画家の梅原龍三郎にも称賛されます。

ただ西洋と東洋の血が混ざっている出自的に、作風をどちらへ寄せるべきか苦悶するほど、思い悩みやすい性質の人でした。

そして1962年、最愛の妻が急逝すると、61歳で自ら命を絶つのです。

泉さんは悲劇的な最期を迎えましたが、いずれの子供たちも文学や芸術方面で活躍しました。

ちなみに娘の寿々子さんは、幼少期から病気がちで、生涯家族と共に暮らしたそうです。

そして41歳の若さで亡くなりました。

八雲も54歳で世を去っているため、早世しやすい家系といえますね。

孫の小泉時

八雲の孫で有名な人物が、1925年生まれの小泉時さんです。

長男である一雄さんの息子で、官立無線電信講習所(現在の電気通信大学)を卒業後、山下機船や三井船舶で勤務。

さらにGHQを経て、在日米軍司令部の報道部で活躍します。

そして定年退職後は、妻と共に八雲関連の資料を整理し、保存活動に努めました。

『ヘルンと私』をはじめとした書籍を残し、2009年に84歳で死去。

小泉家の人にしては長く生きて、八雲の資料を後世へ伝えることに情熱を注ぎました。

小泉八雲の家系図まとめ

八雲の家系図には多くの文学者や教育者、芸術家がいました。

作家の長男、英語教師の次男、画家の三男に加え、曾孫の凡さんは民俗学研究者です。

文学をはじめとした表現活動へ造詣の深かった八雲の精神を、いずれの子孫も受け継いでいます。


ちなみに玄孫の守谷天由子さんは、八雲の次男である稲垣巌さんの家系出身だそうです。

巌さんの次女の、長男の娘でした。

八雲は父がアイルランド人、母がギリシャ人です。

守谷さんの血は16分の1が八雲から継いだため、32分の1にギリシャとアイルランドの血が流れています。

歴史ロマンを感じる家系図でしたね。

小泉八雲と夏目漱石の不思議な縁

八雲と夏目漱石には、不思議な接点がありました。

漱石がかつて英語教師を務めていた第五高等学校(現在の熊本大学)では、前任の教師が八雲だったのです。

さらに東京帝国大学文科大学(現在の東京大学)の講師となった際も、前任が八雲でした。

東京帝国大学では、前任の八雲の講義が人気で、彼の退任に伴い「八雲留任運動」さえ起きたそうです。

後任の漱石はまだ無名の田舎教師で、学生たちは反抗心をむき出しにします。

西洋人の魅力的な教師よりも、田舎の日本人教師はつまらなく思えたのでしょう。

漱石は「英文学概説」の授業で、「諸君の希望次第では英語で話してもよろしいのですが」と前置きします。

これが生意気な発言に思え、学生は反抗心を高めていくのです。

しかし漱石は学生のレベルに合わせ、英語の発音に適切な注意を与えつつ、日本語で丁寧な授業を行います。

スキルが高く、人間的にも親切だった漱石の人柄に触れ、学生たちは次第に心を開いていきました。

そして彼は、授業の際に講堂が満員になるほどの人気講師となるのです。

漱石は八雲と間接的なライバル同士になっても、八雲を決して悪く言いませんでした。

むしろ日本文化を海外へ広めた著作を褒め、研究者としての実力を高く評価していたのです。

漱石は高い教養と優れた人間性を備えた学者だったのでしょう。

今では2人とも、同じ雑司が谷霊園に眠っています。

もしかすると、2人で文学談義に花を咲かせているかもしれませんね。


当時の著名な文学者に認められ、今なお注目され続けている小泉八雲。

日本人以上に日本の魅力を理解し、海外へ正しく日本文化を伝えた功績は大きいでしょう。

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