正岡子規の病気、死因は結核?最期と生涯とは。家「子規庵」で死去

明治を代表する俳人だった正岡子規(まさおか しき)。

数々の名作を残しながら、34歳の若さで世を去りました。

ただし野球好きとして知られた彼は、元々は健康体だったはず。

いつから病魔に侵されていたのでしょうか。

今回は子規の病気、死因は結核という情報、最期の詳細を確認します。

また生涯をまとめ、彼が過ごした家についても見ていきましょう。

正岡子規のプロフィール


幼名:正岡処之助(ところのすけ)

生年月日:1867年10月14日(慶応3年9月17日)

死没:1902年9月19日

身長:163cm

出身地:伊予国温泉郡藤原新町(現在の愛媛県松山市花園町)

最終学歴:帝国大学文科大学哲学科(東京大学)中退

正岡子規の病気

子規の病気について詳しく見ていきます。

彼が初めて喀血したのは、21歳の時でした。

当時流行していた結核が原因です。

これがきっかけで彼は、ホトトギスが死ぬ際に血を吐くことにちなみ、ホトトギスの漢語「子規」を名乗りました。

その後1892年、東京帝国大学(現在の東京大学)を退学し、新聞社「日本」に入社して記者となります。

3年後には日清戦争へ従軍記者として同行。

そして軍船に乗って帰る途中、再び喀血するのです。

結核は当時、治療法のない不治の病でした。

子規は喀血にもめげず句会を催し、句作に励みます。

しかし1900年8月には、これまでにない大量の血を吐くのです。

結核は脊椎まで達し、彼は腰部の手術を受けました。

しかし症状は好転せず、ついに寝たきり状態となります。

著作『病牀六尺』では、狭い病床での寝たきり状態の苦しみを克明につづりました。

そして2年余りの寝たきり生活を経て、34歳で亡くなるのです。

正岡子規の死因は結核?

結核に苦しんだ子規ですが、直接的な死因は別の病気です。

死因は結核を原因として発症した、「脊椎カリエス」でした。

結核菌に破壊された脊椎が湾曲することで、寝たきりや半身不随に至る難病です。

何よりもつらいのは、骨が破壊されて生じた膿が、体外へ出ようと皮膚に穴をあけて流れ出ること。

体に穴があいて、中から膿が流れる際は、想像を絶する痛みを伴うのです。

『氷点』で知られる作家・三浦綾子さんは、脊椎カリエスに苦しみながら、口述筆記で作品を書きました。

子規もやはり口述筆記を使い、最後まで意欲的に文筆作業を続けます。

特筆すべきなのは、随筆の文章は非常に客観的で、他人に読まれる前提で書かれたことがうかがえる点。

壮絶な闘病中にもかかわらず、感傷的な文章を一切書かなかった彼は、紛れもなくプロの文筆家でしょう。

激痛と闘いながら俳句や随筆を書き続けた彼の創作意欲は、見事というほかありません。

母と妹に看病された最期

子規は根岸にある終の棲家「子規庵」で、母の八重、妹の律に看病されていました。

彼の背中には膿による穴がいくつもあいていて、苦痛のあまり寝返りも打てなかったそうです。

子規が実践していた治療法は、とにかく食べること。

刺身をはじめ、ごちそうを大量に食べて栄養をつけ、鎮痛剤を飲む日々を送りました。

しかしあまりの苦痛に、自殺を考えることもあったそうです。

そんな彼を、親友の夏目漱石や高浜虚子、伊藤左千夫ら文学者仲間は献身的に支えました。

とくに虚子によって、寝室の障子がガラス戸に替えられたのは効果的でした。

ガラス戸越しに庭の草花が見えるため、子規は草花の生命力に触れ、前向きな気持ちになれたのです。

1902年9月19日、子規は家族に見守られながら、自宅で息を引き取りました。

辞世の句「糸瓜咲て 痰のつまりし 仏かな」は、文学史に残る名句とされています。


2年ほどの闘病生活でしたが、彼にとってはあまりに長く苦しい歳月だったでしょう。

しかし仲間や家族の優しさに触れることで、ほんの一瞬、幸福を感じる瞬間はあったかもしれません。

正岡子規の生涯

子規は幼少期から漢詩や書画が好きで、友人と詩作会を開くほど、創作意欲が高い人物でした。

1890年に、帝国大学の哲学科に進学しますが、文学を学ぶため国文科に転科しています。

学力は親友の夏目漱石に比べると劣っていたようで、結局は大学も中退。

叔父である加藤拓川のツテで新聞記者になると、本格的に文筆業を開始しました。

とくに大きな功績は、「俳句」の革新運動を行ったことです。

江戸時代から続く松尾芭蕉風の月並みな「俳諧」を否定。

そもそも俳諧から発句だけ独立させ、「俳句」と呼ぶようになったのも、子規の革新活動によるものです。

子規は「写生」を重視し、現実に密着した俳句を確立させました。

現代でも俳人の多くは、日々起こる実際の出来事に材を取っています。


現代俳句の土台を築いたのは、まさに子規だったのです。

さらに短歌でも、「歌よみに与ふる書」で従来の形式的な和歌を否定。

「根岸短歌会」で、短歌を主催して短歌革新を行います。

「根岸短歌会」は伊藤左千夫や長塚節により、短歌結社「アララギ」に発展。

子規はわずか34年の生涯で、現代俳句と現代短歌の基礎を築いたのです。

終の棲家「子規庵」

子規の終の棲家である根岸の「子規庵」。

1945年に空襲で焼失したものの、戦後に再建されたものが現存しています。

2021年3月31日まで休庵中ですが、これまでは一般公開されてきました。

子規が最後の日々を過ごした「子規庵」で、彼が眺めた庭の草花を見つめ、その生涯に思いを馳せるのもすてきですね。

早世したにもかかわらず、現代俳句に多大な影響を与えた子規。

プロの文筆家だった彼の作品は、時代を超えて読み継がれていくでしょう。


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