随筆家で物理学者でもあった寺田寅彦(てらだ とらひこ)。
災害に造詣が深く、「天災は忘れた頃にやってくる」という格言を残したともいわれています。
優れた随筆家で、高名な学者だった寺田。
今回は寺田の子孫、子供を見ていきつつ、コーヒーと線香花火の随筆から、彼の文章がどう優れているのかに迫ります。
さらに関東大震災の調査に関しても確認します。
寺田寅彦のプロフィール
本名:寺田寅彦
生年月日:1878年11月28日
死没:1935年12月31日
身長:不明
出身地:高知県高知市
最終学歴:東京帝国大学理科大学(東京大学)
寺田寅彦の子孫、子供は?
まず寺田の子孫、子供を見ていきます。
昨日開館したオーテピアに立つ寺田寅彦の銅像。
服装と刻まれた言葉を見て、どこの杉下右京さん?って思った。
「おやおや」や「細かいところが気になるのが僕の悪いクセで」、「最後にもうひとつ」とか言いそう。#高知 #相棒 #杉下右京 #寺田寅彦 pic.twitter.com/7y2Ubbr3nP— がわ (@gawa_bttb) July 25, 2018
彼の子孫は今でも各地で存命のようですが、いずれも一般人で詳細は不明です。
ただ孫にあたる女性が、寺田の弟子だった伊東彊の家に嫁いだことは確認されています。
寺田は生涯に3度結婚しており、子供は初婚相手と再婚相手との間にもうけました。
最初の妻・夏子が産んだ子供が、長女の貞子。
夏子と死別したのち再婚した寛子は、二男二女を出産。
長男の東一、次男の正二、次女の弥生、三女の雪子です。
寛子とも死別したのち再々婚した、しん子との間に子供はいませんでした。
長男の東一は、父について書いた『父・寺田寅彦』を発表しています。
寺田東一他 太田文平編『父・寺田寅彦』(くもん出版)を読む。寺田寅彦は昔岩波文庫の随筆集、巻頭の「団栗」で引き込まれて以来のファン。本書は子供達から見た寅彦をまとめたもの。ゆっくり味わって読んで行こう。
— 473ban (@473ban) October 25, 2020
次男の正二も父の資料の保存に努めました。
また三女の雪子は、免罪事件に関する著作で有名な評論家・青地晨(あおち しん)と結婚しています。
寺田の子供たちはいずれも立派に成人し、それぞれの道を進んだことがわかりました。
優れた作家のDNAは脈々と受け継がれているようですね。
コーヒーの随筆『コーヒー哲学序説』
寺田はコーヒーに関する随筆『コーヒー哲学序説』を残しています。
非常に短い著作ですが、独自の「コーヒー観」がうかがえる、味わい深い随筆です。
寺田寅彦さんの「コーヒー哲学序説」。読み終えました。短編なのにコーヒーに対する作者の哲学が深く語られています。喫茶店で美味しいコーヒーを飲みたくなりました。#読書 #コーヒー
— コハタ (@kohata0106) September 3, 2018
寺田は幼少期病弱だったようで、医者の指示で牛乳を飲む必要があったそうです。
栄養価の高い牛乳ですが、臭くて飲みにくかったため、コーヒーを混ぜて臭さを緩和させました。
この時、彼は初めてコーヒーのおいしさに目覚めたのです。
32歳でドイツ留学を経験した際は、滞在していたベルリンで、おいしいコーヒーとパンを楽しんだといいます。
思い出の味をつづりながら、最後に彼は、コーヒーと哲学の類似点を指摘。
コーヒーによって感覚が鋭敏になり、洞察力も磨かれる点で、コーヒーは哲学に似ていると述べるのです。
単にコーヒーへの思いをつづるのではなく、深遠な哲学談義を展開する力量は、見事というほかありません。
まるで『コーヒー哲学序説』そのものが、香り豊かで奥深い味がする、一杯のコーヒーのようですね。
随筆『線香花火』
寺田はコーヒーのみならず、線香花火についても見事な随筆を残しました。
タイトルは文字通り『線香花火』。
短編集『忘備録』に収められています。
わずか千文字程度の中で、寺田は「線香花火の一生」を、得もいわれぬ美しい文体で描いています。
膨らんだ瞬間の花火を「牡丹の花弁」、最後に火花が消えていく様を「散り菊」と表現しました。
さらに花火の様子を、物理学者らしく「重力」や「放物線」などの単語を使って解説。
そうかと思えば、花火をクラシック音楽に例え「火花のソナタの一曲」と表現した点から、音楽への造詣の深さもにじみ出ています。
随筆の最後では、世にも魅惑的で不思議な線香花火について、専門研究が行われていないことを指摘。
2000年代以降、ようやく寺田の指摘に応え、線香花火の研究が始まったようです。
日常の些細な物事に美や哲学を見出し、研究対象として捉えた寺田。
身近なものを研究対象とするスタイルは、「寺田物理学」とも呼ばれました。
今日(11月28日)は寺田寅彦博士(1878~1935)が生まれた日。随筆家・俳人でもあった物理学者。夏目漱石の弟子でもあり、漱石作品の登場人物のモデルにもなっている。線香花火の火花や金平糖の形など身近な対象と研究するスタイルは「寺田物理学」とも言われる。画像は理化学研究所記念史料室にて。 pic.twitter.com/RjZi2zrtrl
— 小林良彦(こばやしよしひこ) (@yoshikoba113) November 28, 2018
文才のみならず、観察眼も鋭い天性の研究者だったことがうかがえます。
関東大震災について
寺田は「天災は忘れた頃にやってくる」の言葉で有名なことからうかがえますが、著名な「地震学者」でもありました。
彼は45歳だった1923年、関東大震災の被害を目の当たりにします。
結果的に彼はすさまじい執念で、関東大震災の調査に携わるのです。
現代日本の防災に関する常識は、彼の調査結果が土台といわれるほど。
彼が有名な言葉で言いたかったのは、「正しく災害を恐れ、普段から備えることが大切」ということです。
また彼は「文明が発展するほど、災害の被害は大きくなる」とも予見。
「文明が発展すればするほど人間社会は災害に弱くなり被害は大きくなる」#寺田寅彦 pic.twitter.com/c6Zegc1m4X
— やっち@十月祭 (@oktoberfest1014) March 13, 2021
実際に2011年の東日本大震災で、原発事故が発生した際は、寺田の指摘が正しかったことが裏付けられたといえます。
災害のリスクに備え、正しく恐れることは、常に求められています。
寺田の言葉を胸に、次の災害で被害を最小限にとどめる努力を続けることが重要ですね。
さまざまな分野に造詣が深く、格言や名言の数々を残した寺田。
彼の著作に触れながら、前向きに明日への備えを徹底したいものです。
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