島崎藤村、暗い性格と家。フランスへの憧れ、芥川龍之介と不仲の謎と自然主義

明治の文豪であり、自然主義の代表的な作家とされる島崎藤村(しまざき とうそん)。

詩集『若菜集』や小説『破戒』で有名ですが、普段はどんな人柄だったのでしょう。

今回は藤村の性格、家について確認します。

またフランス留学、芥川龍之介との不仲説に迫りつつ、藤村は自然主義作家にふさわしいか考察します。

島崎藤村のプロフィール


本名:島崎春樹

生年月日:1872年3月25日

死没:1943年8月22日

身長:推定154cm

出身地: 筑摩県第八大区五小区馬籠村(現在の岐阜県中津川市馬籠)

最終学歴:明治学院本科(現在の明治学院大学)

島崎藤村の性格が暗くなった理由とは

まず藤村の性格を見ていきます。

藤村は暗い性格の人だったようです。

彼の人格形成には、複雑な家庭事情が重い影響をもたらしました。

父の正樹は、発狂の末に座敷牢で亡くなっています。

藤村は父の生涯をモデルに、代表作『夜明け前』を執筆しました。

また母の縫がコレラで亡くなったことは、ロマン主義詩人だった藤村が重い自然主義文学へ路線変更するきっかけとなります。

さらに姉の園子は精神疾患で亡くなり、長兄の秀雄は私文書の偽造で逮捕されました。

壮絶な家庭環境によって形成された暗い性格を、藤村自身は「親譲りの憂鬱」と表現。

結果的に藤村は、姪のこま子と近親相姦の関係に至ります。


41歳で妻に先立たれた彼は、家事を手伝ってくれた19歳のこま子と関係を持ちました。

こま子は妊娠しますが、藤村は逃げるようにフランスへ行ってしまいます。

結果的にこま子は子供を里子へ出し、後年は貧困と病気の末、施設に収容されました。

藤村は彼女との関係に一切責任を持たず、このエピソードを自身に都合のいい解釈で小説『新生』に仕立てました。

暗い家庭環境で育ち、性格がゆがんでしまったのだとしても、さすがに藤村の振る舞いは身勝手ですね。

彼はやむを得ず暗い性格になったことを売りにして、自分に都合の悪い箇所は削った上で私生活を小説にしていたのでしょう。

やや陰があり、危険な香りのする男性のため、こま子は惹かれてしまったのかもしれません。

島崎藤村の家「静の草屋」

藤村が暮らした家は、神奈川県の大磯駅から、歩いて5分程度の場所にあります。

「町屋園」と呼ばれていた旧宅は、三間のこじんまりした民家で、引き戸に大正ガラスを使用。

割竹垣のある庭とそこに咲き誇る花々は、藤村の慰めとなりました。

この家を彼は「静の草屋」と呼んでいましたが、同時に「終の棲家」でもあります。

1943年8月21日、藤村は書斎である茶室風の小座敷にて、大作『東方の門』を書いていました。

ふと「ひどい頭痛だ」と言って、茶棚の常備薬を取り向かいますが、静子夫人へ倒れかかります。

しばらくして「気分がよくなってきた」と言い、縁側へ向かい、庭へ眼を向けました。

そして「涼しい風だね」と涼風を感じながら、庭を眺めたそうです。

もう1回「涼しい風だね」と呟いたのを最後にこん睡し、翌日に亡くなりました。

こうして『東方の門』は、未完に終わったのです。

「町屋園」はその後も静子未亡人が暮らしましたが、彼女は戦争によって箱根に疎開。

1949年からは、劇作家の高田保さんが暮らし、肺結核で亡くなるまで過ごしたそうです。

2人の作家が亡くなった家には、再び静子未亡人が入居し、1973年に亡くなるまで暮らしています。

「町屋園」は保存され、無料で一般公開されてきました。

ちなみに藤村の代表作『家』は、「町屋園」を描いた作品ではなく、あくまで「お家(おいえ)」の没落を描いた作品です。

いずれ2人の作家が暮らした「町屋園」をテーマに、文学作品が誕生すれば面白いかもしれませんね。

島崎藤村のフランス留学

藤村は大正2年(1913年)にフランスへ留学しています。

萩原朔太郎が「ふらんすはあまりに遠し」と表現した通り、明治大正期の人々にとって、フランスは憧れの土地でした。

藤村もまたフランスへ憧れ、42歳の時から3年間を現地で過ごしています。

エルネスト・シモン号で神戸を出発し、パリ5区のポオル・ロワイヤル通りにあった下宿で過ごします。

下宿の女主人はマダム・シモネエで、彼女の下宿には他にも沢木四方吉や藤田嗣治など、多くの文化人が滞在していました。

藤村は当初、フランス語がまったくわからない状態だったため、人と交流せず勉強に励みます。

徐々に他の日本人文化人たちとも交流するようになり、勉強の合間にはパリを散策。

パリでの見聞録「仏蘭西だより」をまとめ、日本の朝日新聞社へ書き送るなどして生活しました。

しかし第一次世界大戦が起きたため、リモージュに疎開し、その後イギリスを経て帰国しています。

激動のパリで生きた藤村の日々は、河盛好蔵著『藤村のパリ』にもまとめられました。

戦争や戦争に伴う事件の数々を目の当たりにした藤村は、「憧れのパリ」の裏面も知り尽くしてしまったのかもしれませんね。

芥川龍之介とは不仲?

藤村と芥川龍之介の不仲説がささやかれています。

原因は、藤村が姪のこま子を孕ませた経緯をつづった小説『新生』を、芥川が批判したためでしょう。

芥川は『或る阿呆の一生』の中で、『新生』の主人公を「老獪な偽善者」と表現。

藤村自身をモデルとしたキャラクターを、ひどくののしったのです。

藤村は芥川が自殺したのち、追悼文の中で『新生』への批判について言及しました。


『新生』における自分の意図を、正しく「読んでもらえなかった」と訴えたのです。

ただ芥川は本文中で、「藤村の『新生』」とは明言しませんでした。

実は芥川は、ルソーによる『新生の書』の主人公を批判したのだという研究結果もあるようです。

いずれにせよ、芥川が藤村と不仲だった証拠はなく、今でも謎のまま。

しかしルソーの『新生の書』について語っていたのであれば、藤村は必要以上に傷ついてしまったことになりますね。

島崎藤村は自然主義の作家?

藤村は自然主義文学の文豪とされていますが、そもそもどのような文学が自然主義なのでしょう。

自然主義が起こったのは、19世紀末のフランスでした。

エミール・ゾラを中心に、自然の事実をあるがまま描くという文学運動が起こったのです。

出来事を美化するのは厳禁で、必ず自然のまま「真実」を描くのが特徴。

ゾラの『ナナ』や『居酒屋』は、自然主義文学の代表作品といえます。

日本でもゾラに影響を受け、自然主義文学は発展。

藤村の『破戒』、田山花袋の『蒲団』が代表的な作品です。

しかし花袋の『蒲団』は、あまりに露骨で生々しい愛欲描写が波紋を呼びます。

結果的に自然主義は、「事実を客観的に美化せず描く」という本来の趣旨を外れ、「事実を赤裸々に描く」ものとなりました。

やがて作家の日常的な実体験を描く「私生活」にまで矮小化されます。

先述した藤村の『家』と『新生』もそのような流れの中で生まれたのです。

つまり藤村は最終的に、ゾラのような自然主義作家ではなく、「私小説」作家になったといえるかもしれません。


しかし初期の『破戒』に見られた客観的な筆致は、他に類を見ない見事なものです。

やはり藤村は、「日本を代表する自然主義作家」と呼ぶにふさわしい文豪でしょう。

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