ホトトギス派の俳人であり、俳句界の巨匠とされる高浜虚子(たかはま きょし)。
同じく著名な俳人である正岡子規は、虚子にとって師匠にあたります。
今回は虚子について、子規の弟子としての経歴、ゆかりの地である鎌倉、家系図と妻の詳細を見ていきましょう。
高浜虚子のプロフィール
本名:高浜清
生年月日:1874年2月22日
死没:1959年4月8日
身長:推定159cm
出身地:愛媛県松山市
最終学歴:第二高等学校(現在の東北大学)
正岡子規との師弟関係
まず虚子と子規の師弟関係に迫りましょう。
老いてなお
なつかしき名の
母子草作者「高浜虚子」
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— 千穂理 (@bLdi2DA1tKx2tex) April 28, 2019
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虚子が子規と出会ったのは、17歳の時でした。
城北練兵場でベースボールを楽しんだ際、松山に帰省中の子規と出会い、言葉を交わします。
何となく子規に心惹かれた虚子は、同級生の河東碧梧桐に紹介してもらい、子規宛に手紙を書きました。
こうして虚子は子規から、文学や俳句を教わり始めるのです。
1891年(明治24年)に、本名の「清(きよし)」に由来した号「虚子」を師から贈られました。
子規は新進気鋭の俳人として、虚子と碧梧桐を売り出し始めます。
虚子は上京後、俳誌「ホトトギス」の編集発行に携わりました。
夏目漱石の『吾輩は猫である』を掲載し、ヒットさせたのも虚子の功績です。
師匠である子規の死後は、俳句の革新や後進の育成に専念。
杉田久女や武原はんなど、女性の弟子も育て上げ、俳人層の拡大に成功しました。
虚子は子規の弟子でしたが、「ホトトギス」の運営手腕は師匠以上に高く、マーケティングの才能に恵まれていた可能性が高いです。
子規が弟子の商業的な才能まで見抜いていたかはわかりません。
ただ結果的に子規、漱石、「ホトトギス」の名を後世に残したのは、虚子の功績と言っても過言ではないでしょう。
鎌倉は高浜虚子ゆかりの地
虚子は1910年(明治43年)から亡くなるまで、50年間を鎌倉で暮らしました。
子供が病弱だったため、自然豊かな土地へ移ろうと考えていたそうです。
さらにしばらく活動から離れていた「ホトトギス」の運営を立て直すべく、気分を一新するため転居しました。
転居した当初は、由比ヶ浜にあるイギリス人所有の立派な洋館を借りて暮らしたそうです。
それから2度転居しますが、結果的に、原の台へ移築された最初の洋館に戻りました。
しばしば句会が催された虚子の自宅は「虚子庵」と呼ばれ、今では「虚子庵跡」の句碑が建っています。
見つけた!高浜虚子庵趾😊
ここは初めて通った道だな。近所の人しか歩かないんじゃない😅#鎌倉 #高浜虚子 pic.twitter.com/FykPDRAgeQ
— kago@鎌倉暮らし (@KagolaboJp) September 26, 2020
85歳で生涯を終えたのも由比ヶ浜の自宅。
今は鎌倉の寿福寺に眠っており、生涯愛した土地から離れない、腰の据わった人物だったことがうかがえます。
高浜虚子の家系図
ここから虚子の家系図を見ていき、彼の家族を確認します。
虚子は松山藩士だった池内政忠の五男で、9歳の時に祖母の実家高浜家を継ぎました。
この時虚子は、次男をもうけた場合、池内家を継がせると約束。
約束通り、1906年に生まれた次男友次郎は池内姓を継ぎました。
池内友次郎は慶應義塾在学中に勉強していた音楽を本格的に学ぶため、中退後にパリ音楽院へ留学。
作曲家のフォーシェやビュッセルに師事し、帰国後はコロムビアや大映で作曲家として活動します。
退職後は理論書の執筆活動の他、東京藝術大学の教授として後進の育成に励みました。
虚子の子供たちの中でとくに知名度の高い人物が、俳人となった次女の星野立子(ほしの たつこ)です。
俳句雑誌『玉藻』の主宰者で、日常の風景や自然をそのまま切り取ったシンプルな俳句に定評がありました。
美しく晴れにけり
春立ちにけり
星野 立子 pic.twitter.com/e3WbO4PMMj— アルビレオ (@albireo122) February 3, 2021
自然の風景を切り取る手法は虚子が唱えたもので、立子は父の方法論を見事に実践したのです。
また虚子の長男として高浜家を継いだ高浜年尾(としお)は、同じく俳人となり、「ホトトギス」代表を務めました。
“咲きみちてこぼるヽ花も無かりけり”
高浜虚子
“お遍路の美しければあはれなり”
高浜年尾
“風少しあり梅の香を運ぶほど”
稲畑汀子 pic.twitter.com/M8qeYCs577— 映画お化け 👻 (@Kinogeist2017) July 29, 2020
小樽高等商業学校(現在の小樽商科大学)在学中は、同期に小林多喜二、1年後輩に伊藤整がいたそうです。
卒業後は旭シルクに勤め、兵庫県へ転勤します。
1938年、雑誌『俳諧』を発行して連句を開始。
退職後は句作に専念し、関西俳壇の重鎮となりました。
死後は次女の稲畑汀子(いなはた ていこ)さんが、「ホトトギス」の代表に就任。
2023年現在は、彼女の息子で、虚子のひ孫にあたる稲畑廣太郎さんが代表を務めています。
詩誌「ホトトギス」が120年以上続いているのは、高浜家の人々が表現活動に加え、運営面にも才能があるからこそ。
虚子の偉大なDNAは脈々と受け継がれていることがわかりました。
高浜虚子の妻は?
虚子は1897年(明治30年)、大畠いとと結婚し、のちに俳壇や音楽界で活躍する二男六女をもうけました。
いとは下宿屋の娘で、元々は虚子の親友だった河東碧梧桐の婚約者でした。
しかし碧梧桐の入院中に虚子と親しくなり、結局そのまま結ばれたのです。
✏『俳句(Haiku)』
季語は🍁秋「秋灯」秋灯(しゅうとう)や
夫婦互いに 無き如く高浜 虚子
秋の夜長
長年連れ添ってきた夫婦は
まるで空気のようだ
夫婦もここまでくればあっぱれ!
虚子は
85歳で亡くなるまで62年間
いと夫人と連れ添って生きてきた
理想の夫婦(めおと)像を
詠み込んだ句 pic.twitter.com/FIp0dF5dYO— Mari/マリ (@MariPsychiatris) August 31, 2020
同じ正岡子規門下だった虚子と碧梧桐。
女性関係のもつれで仲違いしたという情報はないため、碧梧桐はいとに未練がなかったのかもしれません。
いとは虚子と共に62年もの歳月を過ごしました。
2人が円満夫婦になる予感があったため、碧梧桐は大人しく身を引いたのでしょうか。
彼の真意は謎のままですが、虚子が良き妻と親友に恵まれるほど、魅力的な人柄だったことは確かでしょう。
俳壇の巨人として君臨し続ける虚子。
結婚のいきさつはどうあれ、彼は多くの人々を惹きつける人望の厚さを備えていたのでしょう。
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