正岡子規、結婚した妻と子孫について。高浜虚子との師弟関係、性格とは

明治を代表する俳人の一人であり、俳句や短歌の改革者として名を残した正岡子規(まさおかしき)。

多方面にわたる文学活動を行い、34歳の短い生涯を閉じましたが、結婚した妻や子孫はいるのでしょうか。

また後継者に望んだ高浜虚子との師弟関係や、どのような性格だったのかについても掘り下げてみたいと思います。

正岡子規のプロフィール

幼名:正岡処之助(ところのすけ)

生年月日:1867年10月14日(慶応3年9月17日)

死没:1902年9月19日

身長:163cm

出身地:伊予国温泉郡藤原新町(現在の愛媛県松山市花園町)

最終学歴:帝国大学文科大学哲学科(東京大学)中退

正岡子規、結婚した妻の情報はない

正岡子規は日本の近代文学に大きな影響を与えた俳人・歌人であり、その生涯は多くの人々に愛され、支えられました。

しかし、彼自身の結婚に関する情報はほとんどありません。

ここでは、彼の家族、特に妹の正岡律の結婚生活について紹介し、子規の結婚に関する間接的な視点を提供します。

正岡律さんの結婚生活

正岡律は、子規の妹であり、彼の生涯において重要な存在でした。


律の結婚生活は波乱に満ちており、彼女の経験を通じて当時の結婚観や家庭生活について知ることができます。

  • 律は明治18年(1885年)に最初の結婚をしましたが、2年後の明治20年(1887年)に離婚しました。
  • その後、明治22年(1889年)に再婚しましたが、翌年再び離婚しました。
  • 律は兄の看護のために松山から上京し、以後、子規の闘病生活を支え続けました。

律の結婚生活は短期間で終わりましたが、彼女は兄の子規の看護に専念し、その後も家族を支え続けました。

律の経験から、当時の女性が直面した結婚や家庭生活の困難さが垣間見えます。

正岡子規の家族

正岡子規の家族もまた、彼の文学活動を支えました。

特に母親の正岡八重と妹の律は、子規の生涯において重要な役割を果たしました。

  • 母親の八重は、夫を早くに亡くし、子規と律を一人で育てました。
  • 八重は子規の闘病生活を支え、彼の文学活動を後押ししました。
  • 子規の死後、律は家督を継ぎ、子規庵保存会の初代理事長として兄の遺産を守り続けました。

正岡子規自身の結婚に関する情報は見つかりませんでしたが、彼の家族、特に妹の律の結婚生活や母親の八重の支えを通じて、彼の生涯における家族の重要性が浮き彫りになります。

律の結婚生活の経験は、当時の女性が直面した社会的な課題や家庭内の役割を理解する手がかりとなります。

正岡子規の生涯は、彼の文学的な業績だけでなく、家族との絆や支えによって成り立っていたことがわかります。

彼の家族の物語は、子規の人間性や彼の作品に対する理解を深める一助となるでしょう。

正岡子規が結婚した妻や子孫は?

子規は病気のせいもあったのか、生涯を通して妻をもたず、子供もいませんでした。

離婚歴がある律にも子がいなかったことから、正岡家の家系を絶やさないための養子を望んだようです。

白羽の矢が立ったのが母の弟の子で、子規の従弟にあたる加藤忠三郎。

忠三郎は、子規の没後に戸主となった律と養子縁組しています。

戸籍上は妹の養子ですが、正岡家の跡継ぎにあたります。


忠三郎には浩さんと明さんという息子がおり、2019年11月の時点で明さんが奈良市に在住していることがわかりました。

浩さんについては情報がありません。

正岡明さんは1945年、兵庫県伊丹市生まれで、庭園設計業を営む樹木医。

子規の遺品を管理しながら、その功績を伝える活動を続けてきたそうです。

2000年には正岡子規研究所を設立しています。

正岡子規と高浜虚子の師弟関係

高浜虚子の生まれは正岡子規と同じ愛媛県松山市。

門下のなかでも、子規がもっとも目をかけ、一時は後継者として考えていたのが虚子です。

「虚子(きょし)」の号は本名の「清(きよし)」をもじって子規が贈ったもの。

二人を引き合わせたのはベースボールでした。

ある日、虚子が松山城近くの練兵場でベースボールをしていた時のこと。

「ちょっとお借しの」と言われるままにバットとボールを手渡した相手こそ、松山に帰省中の子規でした。

自分のところに転がってきたボールを投げ返すと、その人は「失敬」とひと言。

この何気ない「失敬」に引きつけられたと虚子は後年つづっています。

文学ファンなら、その場に居合わせて目撃したくなる光景ですね。


子規の病が悪化すると、弟子たちは交替で師のもとを訪れて看護を手伝うように。

最期の日に子規庵にいたのは虚子でした。

月が美しい夜だったそうです。

子規の母と交替して仮眠をとっていた時、「清さん、清さん」と突然名を呼ばれ、あわててかけつけると、子規はすでに息をひきとっていました。

臨終を門弟に知らせるために邸宅の門を出ると、天には煌々と光る月。

美しい月光の中に、虚子は師の魂が立ちのぼっていくのを感じたのかもしれません。

「子規逝くや 十七日の 月明に」は、この時に口ずさんだ言葉です。

正岡子規の命日である1902年9月19日は旧暦の8月17日にあたります。

いじめられっ子から大将に?正岡子規の性格

母・八重の回想によると、幼少期の子規は顔立ちが不細工で背も低く、病弱で内向的な性格だったことから、よくいじめられていたといいます。

泣き虫で気も弱く、「青びょうたん」とからかわれていたといいますから、おとなしいタイプだったことがわかります。

ですが、長じてからの子規は幼少期とは異なっていて、親交が深かった夏目漱石の言葉によると、どんなことでも大将にならないと気のすまない男。

新聞記者時代には病をおして日清戦争の取材に行くなど、行動的な熱血漢の一面もみせています。

気弱な少年から明るくたくましい人間に変貌したことがうかがえますが、何かきっかけがあったのでしょうか。


子規の幼名はもともと「処之助(ところのすけ)」といい、学校に上がると「トコロテン」とからかわれるだろうということで、「升(のぼる)」と改めた経緯があります。

改名を機に心境に変化が訪れて一皮むけたのかもしれません。

34年の短い生涯を文学に費やした正岡子規。

俳誌『ホトトギス』を指導し、著名な門下生を輩出した功績は大きいです。

正岡子規の代表的な俳句

短い生涯で2万を超える句を詠み、近代俳句の基礎を築いた正岡子規。

ありふれた作風の俳句や短歌を「月並み調」と呼んで嫌い、「写生(写実)」こそが大事であると説きました。

「柿くへば 鐘が鳴るなり 法隆寺」はもっともポピュラーな一句。

この知名度に対抗できるのは、松尾芭蕉の「古池や 蛙飛びこむ 水の音」ぐらいでしょうか。

「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」もいい勝負ですが、これは俳句ではなくツービートのギャグ。

「柿くへば~」はシンプルでわかりやすく、もはや解説不要のレベル。

写実的とはどういうことなのかがよくわかります。

子規は野球好きなことでもよく知られ、「バッター」「ランナー」「ストレート」といった外来の野球用語を「打者」「走者」「直球」と訳した人でもありました。

なお、「ベースボール」を「野球」と翻訳したのは中馬庚(ちゅうまんかなえ)という人物です。

正岡子規は父の他界により5歳で家督を継いでいます。

若くして結核を病んだ彼の文学活動を支え、同居して最期まで看護したのは母の八重と妹の律でした。

俳号の「子規」とはホトトギスのこと。


「鳴いて血を吐く」といわれるホトトギスと、胸を病んで喀血するわが身を重ねたもので、見方によっては自虐ネタともとれますね。

ホトトギスが鳴いて血を吐くといわれるのは、おそらく口の中が赤いことに由来するのではないかと思います。

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