夏目漱石の性格は?正岡子規、森鴎外とのエピソード。恋愛観と三角関係

明治から大正にかけて活躍した文豪・夏目漱石(なつめ そうせき)。

『吾輩は猫である』や『坊っちゃん』を書いた、「文学界の偉人」のイメージが強いですね。

実際にはどんな人物だったのでしょうか。

今回は漱石の性格、正岡子規と森鴎外とのエピソードをご紹介します。

併せて彼の恋愛観を見ていきます。

夏目漱石のプロフィール


本名:夏目金之助

生年月日:1867年2月9日(慶応3年1月5日)

死没:1916年12月9日

身長:推定159cm

出身地:牛込馬場下横町(現在の東京都新宿区喜久井町)

最終学歴:帝国大学英文科(現在の東京大学)

夏目漱石の性格は?

漱石はどんな性格だったのでしょう。

彼の性格は、「神経質」と「頑固」で言い表せるとされています。

「神経質」だったのは、兄弟を相次いで亡くした青年期から、「不安神経症」の傾向が出てきたことが大きいようです。

神経質な性格を決定づけたのは、イギリス留学でした。

現地では経済的に困窮し、ビスケットで飢えをしのいでいました。

さらに低身長の自分が、ルックスのいい英国人に劣っていると感じてしまいます。

コンプレックスに悩んだ彼は「神経衰弱」となり、精神が不安定になりました。

帰国後は、妻子に暴行を加えることさえあったそうです。

また意見を曲げない「頑固」な面もありました。

英語教師時代、生徒が「先生の発言は辞書の内容と違う」と指摘された際、逆上したといいます。

「辞書の方が間違っている」と、生徒相手に激怒したことから、「頑固」なイメージも定着しているようです。

精神が不安定な漱石は、知人から気分転換に小説を書くようすすめられ、『吾輩は猫である』を執筆。

つまり彼が小説家になった理由は、「精神を安定させるため」だったのです。

しかし小説を書いても精神は不安定なままで、胃潰瘍も併発。

うつ傾向になり、ストレスで胃腸を壊してしまいました。

神経質で自分を曲げられない頑固者。

画家のゴッホとも共通する特徴ですが、2人とも芸術の才能に秀でていた分、社会に適応するのは難しい天才肌だったのでしょう。

正岡子規とのエピソード

漱石と俳人の正岡子規は、東大予備門である一高時代からの親友でした。

2人は同級生で、21歳の頃に出会い、交友を深めます。

子規は和漢詩文集「七草集」を書き上げ、漢詩が得意だった漱石に批評を依頼。

逆に漱石は子規から助言を受けて、俳句作りに励んでいました。

しかし1902年に、子規は肺結核で亡くなります。

親友の死にショックを受けた漱石は、ますます神経衰弱がひどくなりました。

兄弟と親友を亡くし続け、絶望の底で精神を病んだ漱石。

彼を支えたのは、気丈な妻の鏡子夫人でした。

彼女は夫からの暴力も、彼が病気だから仕方ないと受け止めていました。

最後まで献身的に支えてくれた鏡子夫人がいなければ、おそらく漱石の人生は破綻して終わっていたことでしょう。

森鴎外とのエピソード

夏目漱石と森鴎外は、いずれも明治期の文豪として並び称されています。

文壇において漱石は「余裕派」、森鷗外は「高踏派」と扱われてきました。

漱石は、教員の職を捨てて筆一本での生活を目指した自由人。

一方で鴎外は、陸軍軍医の肩書を捨てず、「エリート官僚作家」であり続けました。

対照的に思える2人ですが、お互いのことは認め合っていたようです。

2人が初めて出会ったのは1896年1月3日で、場所は子規の暮らした台東区根岸「子規庵」。

松山中学校の英語教師だった漱石は、冬休み中だったため帰省し、子規の句会に参加します。


この時、同じ句会に鴎外も招かれていたのです。

当時の彼は軍医学校長であると同時に、すでに『舞姫』で文壇での地位を確立していました。

一方、漱石が『吾輩は猫である』でデビューするのは9年後のため、まだ無名の教員でした。

文壇の重鎮である鴎外と同じ句会に参加できたことを、漱石は光栄に感じていたかもしれません。

以降、2人が顔を合わせたのは数回だけでした。

しかし漱石が作家デビューしてから、鴎外は自身の著作を彼に献呈してくれたそうです。

漱石も著作を鴎外に献呈しており、お互いを意識し合っていたことがうかがえます。

鴎外は漱石の作品について、「短所がない」と絶賛していました。

作品を認めてはいるものの、性格は対照的だったため、あまり交友を深めると亀裂が生じる可能性もあったはず。

2人はそのことをよくわかっていたからこそ、適度な距離を取りながら、意識し合っていたのかもしれません。

漱石の恋愛観と三角関係

漱石は『三四郎』や『それから』、『こころ』などの代表作で、男女の恋愛模様を描いてきました。

度々登場するのは「三角関係」。

青年期の漱石は、三兄である夏目和三郎の妻・登世に恋い焦がれていたとされています。

しかし彼女とは死別しました。

彼女への思い入れもあって、作品には三角関係が多く登場するのかもしれません。

登世を純粋に愛した日々を思い、作品の中では三角関係を「一種の理想的な恋愛模様」のように描いている印象があります。

漱石は、「三角関係は一種の美」という恋愛観を抱いていたのではないでしょうか。

ただし彼自身は結婚後、一途に鏡子夫人を愛し続けました。

作品には「三角関係の美」を描きつつも、自身はドラマチックな恋愛を好まぬ一途な男性だったのでしょう。

「文壇の偉人」として教科書に掲載されてきた漱石。


実際には精神的にもろく、つい周囲に八つ当たりしてしまう、不器用で人間臭い人柄だったのでしょう。

彼が破綻せずに済んだのは、思いやりある妻のお陰だったのかもしれません。

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