室生犀星が椅子を振り回す?萩原朔太郎との友情、妻について。犀川と生い立ち

詩集『抒情小曲集』を発表し、近代抒情詩人として高く評価されている室生犀星(むろう さいせい)。

ふるさとや家族をいつくしみ、友人を大切にする人物だったとされています。

しかし穏やかなイメージとは対照的なエピソードもあるそうです。

今回は犀星が椅子を振り回した事件の顛末と、事件からうかがえる萩原朔太郎との友情を見ていきます。

併せて妻と、ゆかりの地である犀川の詳細、生い立ちを確認します。

室生犀星のプロフィール

本名:室生照道

生年月日:1889年8月1日

死没:1962年3月26日

身長:不明

出身地:石川県金沢市

最終学歴:長町高等小学校(現在の金沢市立小将町中学校)中退

室生犀星が椅子を振り回した?

まず犀星が椅子を振り回したエピソードについてです。

「中央亭騒動事件」と呼ばれる一連の出来事は、中央亭で開かれた雑誌「日本詩集」の記念会で起こりました。


宴会の半ば、詩人の野口米次郎がテーブルスピーチで、「日本詩集」が自身の評伝号を出してくれたことに言及。

周囲に感謝を示しながらも、自身に関する評伝がいずれも的確ではなかったと指摘しました。

野口の評伝を書いた萩原朔太郎は彼のスピーチを聴き、自分を含め評者たちは、野口を表面的にしか理解していなかったと悟ります。

萩原は酔いが回っていたこともあり、周囲の許可を得ずに突然立ち上がり、「野口先生が仰る通りだ」と発言。

興奮に任せて演説を始めてしまうのです。

すると萩原に対して人々が「野口先生と呼ぶな。先生などと呼ぶ必要はない」とヤジを飛ばします。

萩原は野口に対する敬愛の念を否定されたと感じ、不愉快になりました。

ヤジを飛ばしたのは、社会主義詩人の岡本潤。

彼が「野口先生と呼ぶな」と発言したのは、宴席では堅苦しい呼び方を避けて、楽しく過ごしたかったためのようでした。

しかし萩原は、敬愛する野口を否定されたと感じ、怒りを覚えてしまったのです。

演説ののち、不満な気持ちのまま酒を飲んでいた萩原のもとへ、岡本がやって来ます。

この時は2人とも落ち着いていて、穏やかに会話したそうです。


事件はそんな中、起こりました。

2人の様子を遠くから見ていた室生犀星が、いきなり椅子をつかんで振り回しながら、岡本に向かって突進してきたのです。

椅子で岡本に打ちかかる犀星の様子に、人々は呆然としました。

すさまじい剣幕で椅子を振り回す犀星でしたが、ついに取り押さえられます。

彼は遠くから萩原と岡本の様子を見ていたため、2人がケンカしていると勘違いしたのです。

萩原の友人として彼を助けようと、正義感に燃えて椅子を振り回したということでした。

事態が収束すると、萩原は友人の思いやりに気分が爽快になったのか、憂鬱な気持ちは吹き飛んだそうです。

人々の目には、勘違いの末に暴れ回った犀星の姿が微笑ましく映ったようで、宴会は穏やかに幕を閉じました。

犀星が非常に友人思いだったことがうかがえる、ユーモラスなエピソードですね。

室生犀星と萩原朔太郎の友情

犀星と萩原が初めて出会ったのは、1914年(大正3年)2月14日でした。

お互いに詩人として認め合っていた2人は、念願が叶い対面するものの、いざ会った時の第一印象は最悪だったそうです。

萩原は犀星について、繊細で「青白い魚」のような美少年をイメージしていましたが、実際には屈強な体つきだったため落胆。

言動も垢抜けせず、田舎者風だった点が不満でした。

犀星も萩原に対して、「キザな虫唾の走る男」と、不快感を示しています。
 
しかし1か月間、毎日交流を続けるうちに、2人は打ち解けていきました。

困窮している犀星のために、生活費や遊興費は萩原が出していたそうです。

やがて2人は「卓上噴水」や「感情」などの文学雑誌を創刊し、二人三脚で活動します。

犀星は文学者として順調に活動し始めてから、今までおごってくれた萩原を、地元金沢で精一杯もてなしました。

第一印象こそ悪かったものの、2人は生涯にわたって熱い友情を結んだのです。

犀星が椅子を振り回して萩原を守ろうとしたのも、1か月かけて友情をはぐくんだ、唯一無二の親友だったためでしょう。

妻は文通相手の浅川とみ子

1918年(大正7年)2月13日に犀星は、文通相手だった浅川とみ子と結婚しています。

6歳年下のとみ子は、金城女学校を優秀な成績で卒業後、小学校教員を務めていました。

犀星は学校嫌いで成績が悪かったため、対照的なカップルといえます。

とみ子は文学少女で、「北国新聞」や「北陸新聞」に俳句や和歌を投稿していました。

投稿作品が犀星の目に留まったことがきっかけで、文通を開始。

交際を経て、犀川のほとりで結婚を決めるのです。

優しく家庭的で食いしん坊だったとみ子は、「バームクーヘン風タマゴ焼き」といったユニークな料理で家族を楽しませました。

43歳の時、脳溢血により半身不随となりますが、「お父様がとても優しいから、幸せです」と語っています。

一男一女を育て、犀星を支え続けたとみ子は1959年に死去。

夫と文学を愛し、家族を支えた、良妻の模範といえる人物だったのでしょう。

室生犀星と犀川

犀星の文学は、金沢県の犀川が原点とされています。

晴には美しい桜並木が見られる犀川。

犀星は幼少期、犀川ほとりの寺院「雨宝院」へ養子に入ります。

私生児だった彼にとって、美しい犀川の景色は慰めになったことでしょう。

犀川の風情を愛してやまなかった犀星は、「美しき川は流れたり そのほとりに我はすみぬ」とつづりました。

1906年(明治39年)、小品が『文章世界』創刊号に初入選した時期から、「犀星」の号を使用し始めます。

「犀川の西」に育ったことにちなんだペンネームを生涯大切に使いました。

文学で身を立てようと上京してからも、犀川の景色をいつも心に思い描いていたのでしょう。

室生犀星の生い立ち

1889年(明治22年)、加賀藩足軽だった小畠家の小畠吉種と女中ハルの間に生まれた犀星。

私生児だったため、生後間もなく、犀川ほとりにある「雨宝院」の養子となります。

1898年(明治31年)、実父の吉種が亡くなり、実母ハルが行方不明になりました。

複雑な生い立ちは、犀星の人生に大きく影響します。

1902年(明治35年)、長町高等小学校を中退後、義母の命で金沢地方裁判所に就職。

給仕として働きながら、上司の俳人河越風骨や赤倉錦風から句作を教わり、俳句や短歌の創作を開始するのです。


恵まれない境遇にもめげず、詩人として大成した犀星。

愛情に飢えていたからこそ、家族や自然に対して、深い愛情を注ぐ優しさを備えた詩人になり得たのでしょう。

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