大隈重信の子孫と家系図。賢夫人の妻、佐賀の邸宅(生家)と家紋とは

早稲田大学の創立者として、また維新後の新政府で手腕をふるった政治家として知られる大隈重信(おおくましげのぶ)。

賢夫人の誉れが高い妻はどんな女性で、家系図の子孫にはどんな人物がいるのでしょう。

生涯を通じて邸宅はたびたび変わりましたが、今回は国の史跡である佐賀県佐賀市の生家にスポットをあてます。

家紋にも関心が寄せられているようですね。

大隈重信のプロフィール

本名:大隈重信(幼名:八太郎)

生年月日:1838年3月11日(天保9年2月16日)

死没:1922年1月10日

身長:推定180cm

出身地:肥前国佐賀城下会所小路(現在の佐賀県佐賀市水ヶ江町)

最終学歴:弘道館

賢夫人・綾子は二人目の妻だった

幕末から大正にかけて、政治や教育の世界で多大な功績を残した大隈重信。

そんな夫を半世紀以上にわたり支え続けた綾子夫人とは再婚同士でした。

1868年(明治元年)、新政府に登用された重信は、最初の妻・美登と幼い長女・熊子を佐賀に残して上京。


その翌年には旧旗本・三枝七四郎の娘で20歳の綾子と再婚。

美登と離縁に至った経緯は定かではありませんが、おそらく美登は、中央で 国政にあたる夫を思いやって身を引いたのだろうといわれています。

離婚が成立したのは5年後のことでした。

二人目の妻・綾子は気丈な性格で、絵に描いたようなかかあ天下。

夫のことを「単独で行動させたら失敗する人」と言い、かたわらには常に綾子の姿がありました。

大隈家が経済的に困窮した時も、重信が片足を切断した時も動じず、献身的に支え続けた綾子夫人。

重信にも「番頭」と呼ばれて頼りにされていたそうです。

大隈重信は大蔵卿を務めたこともある人物ですが、私生活の財布の紐を握っていたのは妻の綾子。

早稲田大学周辺の土地を購入したのも夫人の決断ですから、彼女こそ早大の本当の生みの親といえるかもしれません。

侯爵夫人となったのち、重信逝去の翌年に後を追うように 72歳の生涯を閉じました。

早稲田キャンパスにある重信の銅像は、顔が正面ではなく少し右の方向を向いているのですが、これは、その先の大隈庭園に立つ綾子夫人の銅像と見つめ合っているからとも、女房の顔色をうかがっているからともいわれています。

大隈重信の家系図と子孫について

大隈家は、砲術家として佐賀藩に仕えた上士の家系でした。

最初の妻・美登との間にもうけた長女・熊子は、もし男ならば老侯(重信)をしのぐ傑物になっていただろうと犬養毅に言わしめたほどの女性。

熊子の夫は、大隈家の婿養子となって早稲田大学の要職や衆議院議員を務めた大隈英麿です。

英麿の実父は盛岡藩15代藩主・南部利剛。

のちに英麿が知人の負債の保証人になったことで破産騒動がおこり、熊子と離縁して大隈家を去りました。

その後、平戸藩主・松浦詮の子の常(まもる)が重信の養女・光子と結婚して、大隈家の養嗣子・大隈信常に。

この光子という養女は、長いこと綾子夫人の兄の娘とされてきましたが、80年代になって重信が使用人の女性との間にもうけた子であることが明らかに。

婿養子の信常は日本職業野球連盟の初代総裁を務めた人物。

信常・光子夫妻の子に政治家や外交官として活躍した大隈信幸がいます。

信幸には数人の娘がいますが、その先の情報はつかめませんでした。

おそらく信幸の娘たちの子孫が続いているのではないかと思われます。

ちなみに、政治家で医師の大隈和英さんは大隈重信の玄孫であることをフェイスブックで否定していますが、血縁関係がまったくないわけではないようです。

重信より前の代で分家した別の大隈家の人間とのことでした。

佐賀に現存する邸宅(生家)と重信の家紋

佐賀藩主・鍋島直正や江藤新平らとともに「佐賀の七賢人」の一人に数えられる大隈重信。

幕末から維新にかけて奔走し、その後も国のために尽力した佐賀藩出身の偉人7名の総称です。

佐賀藩は西洋の文化や技術を導入して近代化を推し進めた藩で、俗にいう「薩長土肥」の「肥」。

佐賀城下の会所小路(かいしょこうじ/現・佐賀市水ヶ江)には家臣の屋敷が集まり、この一角に重信の生家の武家屋敷もありました。

大隈重信が少年時代を送った場所です。

1966年(昭和41年)には生誕125年を記念して大隈重信記念館が開館。


その敷地内に生家の「大隈重信旧宅」があり、希少な天保年間の武家屋敷として国の史跡に指定されています。

12歳で父を亡くした重信は母・三井子の愛情を一身に受けて育ったようで、2階の勉強部屋には息子を思う母のアイデアがそこかしこに。

気が散らないようにと外が見えない高い位置にもうけた窓や、居眠り防止のための梁のでっぱりなどが当時のままに残されています。

勉強中にうつらうつらするたびに頭をぶつけてしまうという、ちょっぴり乱暴な仕掛けです。

早稲田キャンパスの大隈庭園にも、かつて重信の邸宅がありました。

上京後は築地の邸宅を皮切りに数回住所を変えています。

神奈川県の大磯にも別邸がありました。

一方で、よく検索されているのが大隈重信の家紋です。

家紋は「丸に剣花角」というそうで、多くのバリエーションがある花角紋の一種。

紋様は花弁を四等分して四弁の花びらに見たてたもので、花柄がおおよそ四方形におさまるようなデザインなのだそう。

剣が入っているのが特徴とのことです。

大隈重信記念館でも家紋を確認することができます。

個人的には、家紋のデザイン性はシンプルでありながらとても高く、日本人の美意識を物語っているように思えます。


大隈重信の葬儀は一般人が参列ができない国葬ではなく、誰でも参列できる国民葬として営まれました。

デモクラシーを推進し、近代日本の礎を築いた功労者として、今後も歴史に名が刻まれることはまちがいありません。

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