幕末に長州藩士として活躍した、高杉晋作(たかすぎ しんさく)。
わずか27歳でこの世を去りましたが、今でも幕末の英雄として不動の人気を誇っていますね。
今回は晋作の死因が結核という情報、名言「おもしろき」の本当の意味を見ていきましょう。
また三味線好きな一面と、気になる性格を確認します。
高杉晋作のプロフィール
本名:高杉春風(たかすぎ はるかぜ)
生年月日:1839年9月27日(天保10年8月20日)
死没:1867年5月17日(慶應3年4月14日)
身長:158cm
出身地:長門国萩城下菊屋横丁(現在の山口県萩市)
最終学歴:松下村塾(昌平坂学問所や大橋塾でも勉学に励む)
高杉晋作の死因は結核
まず晋作の死因についてです。
久~しぶりに、晋作もち買ってきた。
高杉晋作が好きだった梅にちなんで作られたお餅で、焼いた草餅を紫蘇で包んであり、と~っても美味しい😋💕
紫蘇なしバージョンもありまーす☺️ pic.twitter.com/tS6aYFGbe5— mamiiin (@moominmami_J) May 8, 2021
彼は1867年5月17日(慶應3年4月14日)、肺結核によりこの世を去りました。
第二次長州征伐では海軍総督として指揮を執り活躍したものの、この時期にはすでに肺結核を患っていたそうです。
幼少期から気管支が弱かったため、胸を病むことが多かったのでしょう。
病身でありながら前線で戦っていたとき、藩より療養の命が出されました。
下関市桜山で療養を続けた末、大政奉還を見ることなく亡くなったのです。
本日の目的地到着🚵♀️🚵♂️
高杉晋作終焉の地……櫻山神社
⛩👏🏻帰り道にも神社が点在してたので、寄り道しながら帰ります🚵♂️🚵♀️ pic.twitter.com/r7uBqnjLub
— スイマーたく (@TakSwimmer) May 9, 2021
志半ばで去った彼にとっての救いは、両親、妻、息子に臨終を見届けてもらえたことでしょう。
墓所は山口県下関市の「東行庵」にあり、遺言が刻まれた「墓誌碑」も建っています。
晋作の怒涛のような人生に思いを馳せる人々が、今でも墓参に訪れているのでしょう。
名言おもしろきの本当の意味とは
晋作の辞世の歌として伝わっている有名な一節があります。
「おもしろきこともなき世をおもしろく」という歌です。
【今日は何の日・4月14日】
慶応3(1868)年4月14日、肺結核のため下関で療養していた高杉晋作(1839~)が死去しました。「おもしろき こともなき世を おもしろく」の辞世は有名ですよね。
写真は、下関に立つ晋作死去の地の碑と晋作の像から。 #今日は何の日 pic.twitter.com/nhuITy3SzD— 南章 (@nan_sho0036) April 13, 2021
ただし直筆が残っていないため、本当に彼が残した歌かどうかは不明。
さらに、「おもしろきこともなき世におもしろく」とも伝わっており、「を」と「に」が違っている点でニュアンスが異なりますね。
前者は「つまらない世の中を面白くする」、後者は「つまらない世の中に面白いものをもたらす」という意味でしょう。
通説では晋作が亡くなる際、彼を看病した野村望東尼が、下の句「すみなすものは心なりけり」をつけたとされてきました。
東行庵 🌸
高杉晋作終焉の地
おもしろき こともなく世に おもしろく すみなすものは 心なりけり
高杉晋作の辞世の句に下の句の「すみなすものは~」は野村望東尼という女流歌人が付けた句といわれる#桜#東行庵 #高杉晋作#写真好きな人と繋がりたい pic.twitter.com/rhpZGqbi7i
— てんてん (@tenten_ns) April 25, 2019
ただし近年では、彼が亡くなる前年に詠んだ歌であり、辞世の歌ではなかったともいわれています。
彼の一言に野村望東尼が、「世の中が面白くなるかはあなたの心次第」と応じた、何気ないやり取りだった可能性もありますね。
晋作はやり残したことが多く、病床で「つまらない人生だった」と考えたのでしょうか。
筆者は彼の言葉から、「短い人生の中で大いに活躍し、面白い人生だった」という満足の念を感じました。
きっと自分の熱い志を、仲間や後輩たちが受け継ぎ、「さらに面白い世の中を作ってくれるだろう」と考えていたのでしょう。
高杉晋作は三味線好き
晋作は都々逸や座敷音楽を好む風流人で、三味線演奏を楽しんでいたようです。
2010年の大河ドラマ『龍馬伝』では、晋作が戦場に三味線を持っていくシーンが登場しました。
龍馬伝の高杉晋作はめちゃくちゃかっこいいんですよ
店のなかでいきなりピストルぶっ放す危ない人だし
長州征討のときも、三味線弾きながら登場するというトンデモだったけど、それを許せるぐらいかっこいいんだよ…
伊勢谷友介に罪はあるけど、龍馬伝に罪はないからみんな見て#龍馬伝 pic.twitter.com/bjTHRTn9wy— ロランベリー (@nattou893) September 8, 2020
三味線を携えて戦地へ赴く姿は、想像するだけでもかっこいいですね。
ただ彼が戦場にまで三味線を携えていたという記録はありません。
芝居や文学で彼をより魅力的に描くため、後世の人々が創造したエピソードでしょう。
ただ記録に残っていないものの、休憩中に人々の士気を高めようと、三味線を持参したこともあるかもしれませんね。
性格は感情的だった?
晋作は良家に生まれたため、エリート意識の高い人だったようです。
父は200石の長州藩士・高杉小忠太で、4人の子供のうち唯一の男子だった晋作を、大切に育てました。
高杉家は毛利家に仕え、藩政に関わる重要な役割を果たしてきた名家。
晋作は幼い頃から、名家の跡取りとしての意識を抱いていたのでしょう。
子供の頃に遊んでいた凧を、通りすがりの武士に踏まれた際は、土下座での謝罪を要求したそうです。
名家の跡取りらしい、プライドの高さがうかがえるエピソードですね。
同時にエピソードからわかる通り、感情的になりやすい性格だったようです。
松下村塾の学友だった伊藤博文は、晋作の激しい性格を「雷電」と「風雨」にたとえたほど。
一度感情的になると、周囲を振り回しやすい人だったのでしょう。
だからこそ積極的に行動し、若くして亡くなったにもかかわらず、歴史に名を残したといえますね。
今後も晋作のドラマチックな生涯は、若い世代の人々をも魅了し続けることでしょう。
山縣有朋の子孫と家系図。邸宅の庭は椿山荘。渋沢栄一の漫画に登場
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