渡哲也と妻・俊子の結婚と馴れ初め。結婚生活は闘病と献身愛の日々

2020年の8月10日、肺炎のため78歳で死去した渡哲也(わたりてつや)さん。

晩年は外出時にも酸素吸入器が手放せなかった渡さんでしたが、2017年からは石原プロの相談取締役に再就任。

亡き石原裕次郎さんへの義理を果たすかたちで最後まで「石原プロ」の相談者と取締役を務めあげました。

日活で破格の扱いを受け、鳴り物入りで映画デビューを果たしたものの、渡さんの俳優人生は常に病魔と闘いでした。

妻の俊子さんとの結婚生活はどのようなものだったのでしょうか。

二人の馴れ初めから渡さんの経験した病と俊子さんが献身的に看病した闘病生活についても詳しく迫ってみました。

渡哲也プロフィール

本名:渡瀬道彦

生年月日:1941年(昭和16年)12月28日

身長:180cm

出身地:兵庫県淡路島

最終学歴:青山学院大学

所属事務所:石原プロモーション

渡哲也を支えた妻・俊子さんの素顔と経歴

渡哲也さんの妻である俊子さんは、長年にわたり夫を支え続けた女性として知られています。

その知性と献身的な姿勢は、多くの人々の尊敬を集めています。

俊子さんの人物像を深く掘り下げることで、彼女の魅力と強さが浮かび上がってきます。

俊子さんの出自と教育背景

俊子さんは、大手鉄鋼会社の役員を父に持つ令嬢として生まれました。


このような環境で育ったことが、彼女の品格と教養の基礎を形作ったと考えられます。

高等教育を重視する家庭で育ったためか、俊子さんは青山学院大学に進学しました。

この大学での学びは、彼女の知性をさらに磨き上げたことでしょう。

青山学院大学は、キリスト教精神に基づく教育で知られており、ここでの経験が俊子さんの人格形成に大きな影響を与えたと推測されます。

  • 大手鉄鋼会社役員の令嬢として生まれる
  • 青山学院大学で高等教育を受ける
  • 教養と品格を備えた女性として成長

俊子さんの知性は、単に学歴だけでなく、その後の生活においても発揮されました。


聡明さを活かして様々な場面で適切な判断を下す能力を持っていたようです。

しかし、その才能は決して表立ったものではなく、あくまでも控えめな姿勢を貫きました。

この控えめな態度は、俊子さんの賢明さを示すものと言えるでしょう。

俊子さんの人柄を表す逸話として、「あうんの呼吸」というエピソードがあります。

周囲の状況を素早く察知し、適切に対応する能力の高さを示しているようです。

この逸話は、俊子さんの機転の良さと、周囲への気配りの深さを物語っています。

俊子さんの強さは、様々な場面で発揮されました。

例えば、看護師から直接指導を受け、専門的な看護技術を身につけるなど、その努力は並々ならぬものがありました。


このような行動からは、俊子さんの学習能力の高さと、困難に立ち向かう積極的な姿勢が垣間見えます。

また、俊子さんは食事管理にも細心の注意を払う能力を持っていました。

栄養バランスを考えた食事を準備するなど、細やかな気配りを欠かしませんでした。

このような行動は、俊子さんの家事能力の高さも示しています。

俊子さんの人間性は、周囲の人々との交流にも表れていました。

芸能界以外の人脈も広く、社交的な一面も持ち合わせていたようです。

しかし、その交友関係を利用して自身を売り込むようなことはなく、常に控えめな姿勢を保っていました。

この態度は、俊子さんの品格の高さを示すものと言えるでしょう。


特筆すべきは、俊子さんが自身の体調管理も怠らなかったことです。

健康管理に気を配り、長期にわたる活動を続けることができました。

この姿勢は、自己管理能力の高さを示す好例と言えるでしょう。

俊子さんの存在は、芸能界の表舞台には現れませんでしたが、その影響力は計り知れないものがあります。

裏方として、様々な場面で重要な役割を果たしていたと考えられます。

このような妻の存在は、多くの人々に感動を与え、理想的な女性像として語り継がれることでしょう。

俊子さんの人生は、表舞台に立つことはなくとも、その内面の豊かさと強さで輝いていたと言えます。


知性と教養、細やかな気配り、そして静かな強さ。

これらの要素が組み合わさって、俊子さんという一人の魅力的な女性を形作っていたのです。

俊子さんの生き方は、現代社会においても多くの示唆を与えるものと考えられます。

表立った活躍ではなく、裏方として支える役割の重要性を示しているからです。

このような生き方は、多様な価値観が認められる現代において、一つの選択肢として捉えることができるでしょう。

日活スター候補・渡哲也の結婚

女性人気が高かった渡哲也さんの人気が落ちることを懸念した日活。結婚はなかなか公表できなかったといいます。

1971年に二人きりでハワイで挙式を挙げ、その後、俊子さんは妊娠。

そこからも二人の結婚生活はスムーズには進みませんでした。

俊子さんの妊娠中、渡さんは度重なる病魔に襲われています。

倒れた夫を献身的に看病した身重の俊子さんは心身共に大きなストレスを抱えることになり、何度も流産の危機があったといいます。

俊子さんは渡さんとの結婚後も表に出ることはなく、仕事に関しても口出しすることなく裏方に徹して病に伏せることが多かった渡さんを支えていたといいます。

石原裕次郎さんも食べたとされる手作り減塩料理で日本のトップ俳優・渡哲也の活躍を陰で49年間と5カ月もの間、支え続けた俊子さん。


そして石原裕次郎さんの死去から、石原プロを2011年まで支えてきた渡さん。

一度は退任したものの、2017年から亡くなる2020年まで取締役として石原プロを支えてきた渡さんでしたが、陰で俊子さんの献身的な支えがあったからこそということがわかりました。

二人の間にできた子ども(長男)の存在については、最初で最後の自伝となった渡哲也・自伝『流れゆくままに』(青志社)で明かされています。

病魔との闘い、そして渡さんの女優とのゴシップなど、苦労の絶えなかった俊子さんでしたが、最後まで渡さんと添い遂げたことから、二人の愛の深さは計り知れないものであったということがわかります。

妻との馴れ初め

青山学院大学の一年後輩だった俊子さんに一目ぼれしたという渡哲也さん。

当時から面倒見のよい俊子さんを頼っていたそうです。

その頃から、俊子さんは献身的だったのですね。

渡さんはその後、同大学四年の頃に日活のスカウトを受け、俳優の道に進みました。

1971年に結婚している二人ですが、交際から6年目の結婚だったそうです。(「7年」という説もあります。)

1964年(昭和39年)に日活に入社した渡さんを陰の存在として支えてきた俊子さんでしたが、女性人気が高かった日活スター候補「渡哲也」の結婚はしばらくの間、極秘情報だったようです。

そして結婚の翌年から、俊子さんは渡さんの看病に追われることになりました。

渡哲也の闘病

1971年3月にスタートした新婚生活でしたが翌1972年には「葉間肋膜炎」を発症。


その後も、胸膜癒着症、肺感染症、直腸がんの手術の結果、人工肛門の生活を余儀なくされます。

さらに大腸がん、急性心筋梗塞、肺気腫などの病魔に次々と襲われた渡さん。

2016年には肺気腫や喘息で酸素吸入器をつけて生活するようになったといいます。

晩年には酸素吸入器と車椅子なくして生活ができなったようです。

突然の病によって大河ドラマ降板などの憂き目にあいました。

そして渡さんが病に倒れるたびに方々へ頭を下げて回ったという俊子さんの姿があったといいます。

名優・渡哲也の活躍ばかりが印象に残る陰で、面倒見のよさと奉仕の精神、そして強い意志をもった女性である俊子さんの生きざまを知ることができました。

さまざまな試練を乗り越え、最愛の妻・俊子さんに看取られながら息を引き取ったそうです。

渡さんの母も「あなたには苦労のかけっぱなしで」と涙ながらに感謝したというエピソードも残されています。

「どんな形でもいいから生きて欲しい」と医師に懇願したという俊子さんの愛の深さには思わず涙が出るほどです。


渡さんが残した名作の数々、映画やドラマ、CMや時にバラエティ出演も果たしたその裏で、知られざる二人の愛と闘病の日々があったのだと知ることができました。

俊子さんの深い愛に支えられてこその活躍だったのですね。

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