歌手・銀幕スターであり、「石原プロモーション」創立者としても知られた石原裕次郎(いしはら ゆうじろう)さん。
今なお多くの人を魅了し続ける大スターです。
今回は、そんな石原裕次郎さんを支えた妻・まさ子さんとの結婚や馴れ初めにまつわるエピソードについてまとめました。
また、石原さんのお子さんについても調査しています。
一方、浮名も流していた彼には、とある歌手と”愛人関係だった”という噂もあるようです。
併せて、石原さんの普段の生活についてもまとめていますので注目です。
石原裕次郎のプロフィール
本名:石原裕次郎
生年月日:1934年12月28日
死没:1987年7月17日
身長:178cm
出身地:兵庫県神戸市、北海道小樽市、神奈川県逗子市
最終学歴:慶應義塾大学法学部政治学科中退
石原裕次郎の息子:不在の謎と養子縁組の真相
昭和を代表する大スター、石原裕次郎さんの私生活について、多くの人が興味を持っています。
特に、息子の存在に関する疑問は長年にわたり話題となってきました。
ここでは、石原さんに実子がいなかった理由や、養子縁組に関する情報を詳しく見ていきましょう。
実子不在の背景:噂と推測
石原裕次郎さんと妻のまき子さんの間には、27年間の結婚生活の中で子供が生まれませんでした。
この事実は、多くのファンにとって意外なものだったかもしれません。
長年連れ添った夫婦に子供がいないことについて、様々な憶測が飛び交いました。
その中でも最も広く知られている噂は、石原さんの健康状態に関するものです。
一部では、石原さんが梅毒に罹患していたのではないかという推測がなされています。
この噂の出所は定かではありませんが、「ハワイで感染した」や「銀座での豪遊中に感染した」など、具体的なストーリーまで語られるようになりました。
しかし、これらの噂は裏付けのない推測に過ぎず、真相は明らかになっていません。
石原さん本人や家族が公式に言及したことはなく、あくまでも世間の憶測の域を出ないものです。
また、別の見方として、石原さんとまき子さんが意図的に子供を作らなかったという説もあります。
芸能界での活動や、多忙なスケジュールを考慮すると、子育てに十分な時間を割くことが難しかった可能性も考えられます。
さらに、石原さんが自身の遺産相続問題を懸念して、あえて子供を作らなかったという説も存在します。
これは、南極観測船「宗谷」の映画化権をめぐる問題を念頭に置いたものだと言われています。
しかし、これらの説も確かな根拠があるわけではなく、推測の域を出ないものです。
石原さんとまき子さんが子供を持たなかった真の理由は、おそらく当事者にしか分からないものでしょう。
一方で、石原さんの兄である石原慎太郎さんには子供がいることから、石原家の遺伝的な問題ではないと考えられています。
このような状況下で、石原さんとまき子さんは、互いを支え合いながら長年の結婚生活を送ってきたようです。
子供がいないことで、二人の絆がより深まった可能性も考えられます。
石原さんの死後、まき子さんは夫の遺志を継ぎ、石原プロモーションの運営に携わってきました。
この間、まき子さんは石原さんの遺産や事業を守り続けてきたと言えるでしょう。
しかし、時代の変化とともに、石原プロモーションの在り方にも変化が求められるようになりました。
そんな中、新たな展開として注目されたのが、まき子さんによる養子縁組のニュースです。
まき子さんは、自身の甥にあたる人物と養子縁組を行ったと報じられました。
この養子となった人物は、「石原邦彦」さんという名前で知られるようになりました。
邦彦さんは、まき子さんの弟の息子、つまり甥にあたる人物だと言われています。
以前は別の苗字を使用していましたが、養子縁組を機に「石原」姓を名乗るようになったとのことです。
邦彦さんは、東京都世田谷区で小さな書店を経営していたと伝えられています。
この書店は、邦彦さんが親から受け継いだものだったようです。
興味深いことに、邦彦さんと石原プロモーションとの関わりは、養子縁組よりもずっと前から始まっていたようです。
1988年頃、日刊スポーツ映画大賞の石原裕次郎賞が創設された際、まき子さんの提案で邦彦さんが映画祭に招待されたと言われています。
それ以来、邦彦さんはほぼ毎年、来賓として映画祭に出席していたそうです。
また、邦彦さんの書店は地域に密着した経営を行っており、本の宅配サービスなどで評判を得ていたようです。
石原プロモーションの俳優たちも、この書店を利用していたという話もあります。
このような長年の関係性が、最終的に養子縁組という形で結実したのかもしれません。
養子縁組の正確な時期は明らかにされていませんが、まき子さんが70代後半に差し掛かった頃から、邦彦さんとの関係が「急接近」したと言われています。
この養子縁組により、邦彦さんは法的に石原家の一員となりました。
これにより、石原プロモーションの経営や、石原裕次郎さんの遺産管理にも関与する可能性が出てきたと考えられます。
実際、2018年頃から邦彦さんは石原プロモーションの関連会社の取締役に就任したという情報もあります。
このような動きは、石原プロモーションの将来を見据えた戦略的な判断だったのかもしれません。
石原裕次郎さんに実子がいなかったことは、多くの人々にとって意外な事実だったかもしれません。
しかし、養子縁組という形で新たな家族を迎え入れたことで、石原家の未来に新たな可能性が開かれたと言えるでしょう。
石原さんの遺志を継ぎ、その遺産を守り続けてきたまき子さんの決断は、多くの人々の関心を集めています。
これからの石原家と石原プロモーションの行方に、注目が集まることは間違いないでしょう。
石原裕次郎の妻まさ子との結婚と馴れ初め
裕次郎さんの妻・石原まき子さんは、かつて「北原三枝(きたはら みえ)」名義で女優として活躍しました。
“Good night”
北原三枝 pic.twitter.com/FR2HR6ht1D
— Hello George (feel free to chat in English) (@ryochikun22) March 20, 2021
日劇ダンシングチームのダンサーを経て、松竹ニューフェイスに合格。
1952年の松竹映画『カルメン純情す』で、本格的に女優デビューします。
2年後、日活に引き抜かれ、日活所属のトップ女優となりました。
裕次郎さんと初共演したのは、1956年の映画『狂った果実』です。
『狂った果実』以降、2人は23作もの映画で共演し、「日活のドル箱コンビ」と呼ばれます。
日活『俺は待ってるぜ』(1957 蔵原惟繕監督 )公開スチール撮りの風景~石原裕次郎さん&北原三枝さん。絵になるお二人✨/「写真集 北原三枝」より pic.twitter.com/7tyi9uOR6G
— 島倉千代菊 (@wataridori333) October 7, 2020
日活の大スター同士、公私共に意気投合した2人は交際を開始します。
しかし当時、同じ映画会社に所属するスター同士の恋愛はNGでした。
そこで2人は駆け落ち同然で、婚前旅行としてアメリカへ向かいます。
やむなく映画会社も交際を認め、1960年に2人はめでたく結婚しました。
結婚後まき子さんは女優業を引退し、夫を陰で支えながら、石原プロの運営に携わります。
彼の死後は取締役となり、2代目社長の渡哲也さんを支えました。
2011年、渡さんが社長を退任後も、彼と共に会社を運営。
しかし年齢的に実務が難しくなり、後継ぎもいない状況のため、2021年1月16日に石原プロを閉鎖するのです。
一時期、石原プロは借金を抱えたこともあり、常に運営が順風満帆というわけではありませんでした。
いつでもまき子さんは、悩める夫に寄り添い、彼が大動脈瘤や肝細胞がんなどの病魔に侵された際も支え続けます。
彼女は女優としてのキャリアを捨て、「石原裕次郎の妻」として、夫と会社のために尽くしたのです。
石原裕次郎の盛大な結婚式
駆け落ち同然で結ばれた裕次郎さんとまき子さん。
アメリカへ婚前旅行に出かけることで、2人の交際を禁じていた日活に関係を認めさせました。
1960年、日比谷にある「日活国際ホテル」で挙式。
日活ホテルで挙げられた石原裕次郎結婚式での集合写真。長門裕之の顔も見える。北原三枝の隣はフランク榊原か。その左後ろは田中淑郎だろうか? pic.twitter.com/6eRSD6NdSo
— 2番ホームの桃中軒 (@kurotegumi) December 21, 2019
1億円以上をかけた盛大な結婚式には、合計120社のマスコミ各局が集結し、関係者240人が詰めかけます。
さらに長嶋茂雄さん、王貞治さんなど、スポーツ界の大物を含む400人の招待客が、会場を華やかに彩りました。
中でも注目されたのが、当時はまだ珍しかったウエディングケーキです。
これをマスコミが大きく報じたため、日本でウエディングケーキが普及したといわれています。
【12月2日は何の日フッフ〜】それは1960年(昭和35年)のこと・・・日活の映画俳優・石原裕次郎と女優・北原三枝が日活国際会館で結婚式を挙げた日です。披露宴には江利チエミや力道山などが出席し、100社以上の報道陣が詰めかけました。 pic.twitter.com/AO988FuMvf
— 三十坪の秘密基地 (@30tsubo) December 2, 2014
大スター同士にふさわしい、豪華な結婚式。
2人は華やかな結婚会場で、たとえ長く険しい道のりでも、共に歩んでいく覚悟を決めたのでしょう。
石原裕次郎はどんな性格だった?
裕次郎さんは多くの人がイメージする通り、豪快で男らしい性格だったようです。
肉料理や酒、煙草を好み、ベンツを乗り回すという豪胆さを持ち合わせていました。
同時にとても礼儀正しい人で、どんな相手に対しても立ち上がって挨拶し、握手していたそうです。
相手への気遣いを常に心がけ、石原プロが倒産の危機を迎えた際には、社員全員へ家をプレゼントしたといいます。
被災地で行われる石原プロ名物「炊き出し」も、裕次郎さんが考案しました。
豪快ながら気遣いを忘れない、まさに「昭和の男」らしいスターだったのです。
ファンたちは、彼の放つまばゆいオーラ以上に、その豪快さと優しさを慕い続けているのかもしれません。
石原裕次郎は今もその存在感で芸能界に君臨
裕次郎さんのデビューは苦労も多く、東宝や東映、日活のオーディションには全て落選してしまったそうです。
ただ、オーディションに落選させた判断は誤りだった事は明白。
きっとその後の活躍ぶりを見て、オーディションの審査員達は後悔した事でしょう。
ですが裕次郎さんは芸能界で活躍する運命にあったようです。
兄、石原慎太郎さんの書籍「太陽の季節」が映画化される際に考証スタッフとして参加。
すると存在感ある佇まいがカメラマンとプロデューサーの目に留まり、端役で出演する事に。
エキストラ的な出演だったものの、一目で分かるスターとしての資質。
その後、「狂った果実」で俳優デビューながら初主演を務める事に。
これで俳優としての人気を決定づけた石原裕次郎さん。
それ以降は押しも押されもせぬトップスターとして数々の作品に出演。
親しみも込めて「裕ちゃん」の愛称で人々に愛されました。
こうして誰もが羨むような地位と名声を手に入れた石原裕次郎さん。
ですが、これで満足する事なくより高みを目指すのが凄いところ。
「映画会社にも取れないような作品を取る」という決意を胸に石原プロモーションを設立。
そして「黒部の太陽」を筆頭に日本映画史に残る超大作を次々に世に送り出しました。
活躍の場をテレビに移してからは「太陽にほえろ!」や「西部警察」等がシリーズ化する大ヒット。
ハリウッド映画にも見劣りしないアクションやカースタントが話題となりました。
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