石原裕次郎の父と母、家系図まとめ。兄・石原慎太郎との仲

昭和の大スター石原裕次郎(いしはらゆうじろう)さんは、1987年に52歳という若さでこの世を去りました。

慶應義塾大学在学中から俳優を目指し、兄の石原慎太郎(いしはらしんたろう)の小説が原作の映画「太陽の季節」で端役をもらってデビューしました。

そして日活に入社し、「狂った果実」など、デビューして3年で30作品もの映画に出演する大スターとなり、当時は誰もが憧れる超人気俳優でした。

そんな石原裕次郎さんの家系図からお父さん、お母さん、そして兄の石原慎太郎さんについて見ていきましょう。

石原裕次郎のプロフィール

愛称:「裕ちゃん」「ボス」

本名:石原裕次郎

生年月日:1934年(昭和9年)12月28日

死亡年月日:1987年(昭和62年)7月17日

身長:178cm

出身地:兵庫県神戸市

最終学歴:慶應義塾大学法学部政治学科中退

所属事務所:石原プロモーション

父・潔

石原裕次郎さんの父である潔(きよし)さんは、愛媛県で1899年(明治32年)に生まれました。

警察官だったお父さんを早くに亡くし、とても苦労されたようです。


潔さんは大学進学の夢叶わず、旧制宇和島中学(現在の宇和島東高校)を中退し、14歳という若さで海運会社の山下汽船に入社しました。

入社当時は無給の下働きからのスタートでした。

そして光子さんと結婚し、北海道の小樽市に引っ越した後、東京に転勤となり、関連会社の重役に就任するほど人間関係の構築も上手で、仕事もできたのでしょう。

社員からはとても好かれていたようです。

石原裕次郎さんが長身だったのも、お父さん似だったのでしょう。

潔さんも当時にしては高身長で、175cmあったそうです。

しかし、元々高血圧だったこともあり、働き盛りの51歳で脳溢血により亡くなってしまいました。

母・光子

石原裕次郎さんの母・光子(みつこ)さんは広島県出身で、1909年(明治42年)に厳島神社の参道で土産物店を経営していた家に生まれました。

光子さんは継母と仲が良くなかったため、神戸の第二高等女学校に進学したそうです。

行動力がかなりあったようで、卒業後は画家を目指して上京したといいます。

その後潔さんと結婚し、慎太郎さんと裕次郎さんを育てあげました。

光子さんは1986年に「おばあちゃんの教育論−慎太郎・裕次郎もこのおふくろには頭があがらない」という子育てについての本を出版しています。

これは、当時のお母さん達が子どもを良い学校・良い就職先に入ることだけ熱心になったり、子どものご機嫌取りばかりしたりと、子育てで大切なことを忘れているのではないかと考えました。

自分の子育てを通して役に立てたら、という思いが込められた本だそうです。

一人は芸能界の大スターの裕次郎さん、もう一人は芥川賞作家で都知事まで務めあげた慎太郎さんを育てた光子さんの言葉は重みがありますね。

石原裕次郎の兄・慎太郎

裕次郎さんのお兄さんである石原慎太郎さんは皆さんご存知の通り、元東京都知事でもあり、芥川賞作家でもあるマルチな才能を持つ人です。

裕次郎さんの2歳年上で、一橋大学法学部を卒業した秀才でした。

スポーツも得意で、高校・大学時代サッカー部に所属し、レギュラーで活躍しました。

その後芥川賞受賞作「狂った果実」の映画化がきっかけで、弟の裕次郎さんの念願であった芸能界デビューのきっかけを作ってあげました。

実はこの頃、裕次郎さんは父・潔さんを亡くしたショックで酒を浴びるように飲んでいました。

それを見かねて映画の端役にキャスティングしてあげたのだそうです。

その後典子さんと出会い結婚します。


典子さんの父は小泉純一郎元総理大臣の弟・正也さんの妻である美枝子さんの祖父と兄弟でした。

つまり、石原裕次郎さん・慎太郎さんと小泉純一郎さんは縁戚関係にあるのですね。

石原慎太郎さんは妻・典子さんとの間に4人の子どもをもうけましたが、実は別にもう一人子供を認知しています。

週刊誌で隠し子報道がスクープされて一時話題になりました。

慎太郎さんが49歳の時、当時22歳だったホステスさんとの間にできた婚外子でした。

マスコミに騒がれるまで一切そのお子さんとは会っていなかったそうですが、騒動を機に会うことになったようです。

さて、政治家としては1968年に参議院議員になってからは、50年近く衆議院議員や東京都知事として活躍されました。

2015年には春の叙勲で旭日大綬章を受章されています。

裕次郎と慎太郎の兄弟仲

石原裕次郎さんと兄・慎太郎さんは非常に仲が良かったそうです。

お二人が楽しそうに歌っている姿からも、その絆の深さがわかりますね。

慎太郎さんが42歳で東京都知事選に初出馬した時は、精一杯応援すると言って、二人仲良く選挙カーに立って選挙に臨んだといいます。

惜しくも落選しましたが、その後は東京都知事に4回当選、衆議院議員選挙にも10回も当選されています。

1981年に石原裕次郎さんが大動脈解離で倒れた時は公務で小笠原諸島にいた慎太郎さん。

慌てて海上自衛隊に頼んで東京まで運んでもらったので後に問題となりましたが、それほど兄弟の絆は深かったのです。

その時も、手術まで毎日時間を決めて、弟がなんとか助かりますようにと自宅の神棚に祈ったということです。

1987年、肝細胞ガンで石原裕次郎さんがこの世を去った時も、慎太郎さんは「片腕がもがれる思いだった」と語っていたそうです。

非常に仲が良く、世の中を二人で渡ってきたといいます。その辛さは計り知れません。


このように家族は、皆さんそれぞれの時代を懸命に生き抜いて、立派に活躍されて来ました。

石原裕次郎さんは亡くなって年月が経った今もなお、多くのファンに愛され続けています。

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