石原裕次郎の死因は酒?性病疑惑は嘘?闘病した慶応病院と最後

昭和を代表する大スター・石原裕次郎さん。

俳優として、歌手として、そしてその豪快な生き方と屈託のない存在感が時代に傷ついていた昭和の人々の心を癒し、励ましてきました。

当時、日本人離れしたスタイルで羨望のまなざしの的だった名優・裕次郎さんの晩年の私生活について迫ってみました。

石原裕次郎のプロフィール

愛称: タフガイ・裕ちゃん・ボス・ユージロー

本名:石原裕次郎(いしはら ゆうじろう)

生年月日: 1934年年12月28日

身長:178cm

出身地:兵庫県神戸市須磨区

最終学歴:慶應義塾大学

所属事務所: 石原プロモーション元代表取締役社長

石原裕次郎の死因

1987年の7月17日、裕次郎さんは52歳の若さで亡くなっています。

裕次郎さんの死因は「大動脈乖離」とされる情報もあるようですが、実際の死因は「肝細胞癌」でした。

晩年、乖離性大動脈瘤に見舞われた裕次郎さんでしたが、この病は奇跡的に克服しています。

豪快で破天荒な生きざまだった裕次郎さんは「酒」「タバコ」のほか、多忙のストレスと不摂生な生活も影響を与えているのではないか、と憶測されています。

とにかく、昭和を代表する大酒豪だった裕次郎さんですから、お酒で体調を崩したのでは?という声も多く見受けられました。

切っても切り離せない裕次郎さんとお酒について詳しくみていきましょう。

豪快な酒豪伝説

裕次郎さんの「酒豪伝説」と呼べるようなエピソードは無数に残されています。

プライベートでも「酒」に関する伝説が数多く残されている裕次郎さんですが、日本酒『松竹梅』のCMに出演していました。

当時の大スターは酒豪が多かったらしく、裕次郎さんと伝説のプロレスラー・力道山のエピソードも残されています。

「昼間から撮影所の芝生でビールをラッパ飲みしたり、レコーディング前にビールで喉を潤すなど、酒豪の裕次郎さんは力道山と酒席を共にすることが多かったといいます」(元老舗芸能プロ幹部)

甥の石原良純さんの著書のなかでも、良純さんはブランデーグラスをチビチビ、裕次郎さんはぐびぐびと傾けていたと語られていたり、裕次郎さんの口伝『我が人生の辞』(主婦と生活社)のなかでも「金があろうがなかろうが、僕は飲みにいく」といい、ツケで飲んでいたエピソードを明かしたりしています。

石原裕次郎に性病の噂

死因は「肝細胞癌」と発表されていますが、まことしやかに囁かれたもう一つの死因疑惑があったようです。

それがなんと「性病」であり、「梅毒」であったのではないかという驚きの内容でした。

ですが、この情報はあくまで噂です。

この情報には裏付けもなく、信ぴょう性がありませんし、数々の女性と浮名を流した稀代のモテ男・裕次郎さんだからこその噂といえそうです。

裕次郎さんが「性病」だったというエピソードは公式情報からは得られませんでした。

石原裕次郎の闘病

裕次郎さんを襲った「舌癌」の発覚から壮絶な闘病の様子について、兄の慎太郎さんが自著『弟』(幻冬舎)に書き残しています。

「白板症(はくばんしょう)」と発覚した裕次郎さんの病。

1978年当時43歳の裕次郎さんを襲ったこの病によって歌手、俳優生命が絶たれる瀬戸際に立たされたようです。


その後も「解離性大動脈瘤」そして「肝臓がん」が裕次郎さんを襲います。

闘病生活を支えた裕次郎さんの妻・まき子さんの介護日記が後年に本になりましたが、一日も離れることなく病に苦しむ裕次郎さんに付き添い、献身的な介護をしたそうです。

とはいえ、禁止令を破って、隠れてタバコを吸ったり、まき子さんお手製の減塩のお弁当を渡哲也さんに食べさせたりと、そのヤンチャな生きざまとエピソードが残されています。

今も伝説として語り継がれている裕次郎さんの壮絶な生きざまを垣間見ることができました。

慶応病院に入院

1981年6月、当時のワイドショーで流れた映像は、入院先の慶応病院の屋上から手を振る裕次郎さんの姿でした。

妻のまき子さんや渡哲也さんと一緒に、ワインレッドのガウンを着た裕次郎さんが笑顔を見せています。

1951年の5月、当時47歳だった裕次郎さんは胸部大動脈瘤で慶應病院に緊急搬送されました。

生存率の低い手術を無事に乗り切り、奇跡の生還を遂げた裕次郎さん。

顔色が悪く、痩せたように見える写真でしたが、一命をとりとめた大スターの姿にファンは胸を撫でおろしました。

石原裕次郎の最後

闘病の甲斐もむなしく、裕次郎さんは1987年7月17日に52歳の若さで亡くなっています。

妻のまき子さんの日記の最期には、死期が近づき幻覚が始まったこと、腹圧がはちきれそうな様子など、具体的な苦しみが書き記されています。

マスコミの張り込みが執拗で、対応に追われている様子などは読んでいて身につまされる思いがします。

「裕さん、とても逢いたいのです」

『妻の日記〜夫・石原裕次郎の覚悟〜』(主婦と生活社) 石原まき子著 より引用

で終わるこの日記は昭和の大スターが太く短い生涯に幕を下ろした悲しみを表現しています。

たくさんの人に愛された裕次郎さん。

死後も裕次郎さんを慕った後輩たちの意思によって受け継がれてきた「石原軍団」

裕次郎さんが残してくれた数々の名作は人々の心に残り続けるでしょう。

あらためて昭和の大スター・石原裕次郎の偉大さを思い知らされます。


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