黒田清隆の子孫と家系図。酒の不祥事、黒田官兵衛と関係は?北海道開拓で功績

元薩摩藩出身の武士で、明治維新後は内閣総理大臣を務めた黒田清隆(くろだ きよたか)。

今回は清隆の子孫を家系図から調査していきます。

また酒による不祥事、戦国時代の軍師・黒田官兵衛との関係、北海道開拓の詳細を確認しましょう。

黒田清隆のプロフィール

通称:仲太郎、了介

本名:黒田清隆

生年月日:1840年11月9日(天保11年10月16日)

死没:1900年8月23日

身長:不明

出身地 薩摩国鹿児島(現在の鹿児島県鹿児島市)

最終学歴:江川太郎左衛門が主宰する砲術学の塾

黒田清隆の子孫を家系図で確認

まず清隆の子孫を家系図から確認します。

彼には娘の梅子、竹子と、嗣子の清仲という3人の子供がいました。

梅子は榎本武揚の長男・武憲と結婚し、子爵夫人となります。

榎本武揚は、箱館戦争を戦い抜いた旧幕臣として有名で、清隆とは生涯交流がありました。

また竹子は、内務省の官僚を務めた伊地知貞馨(いじち さだか)の孫・貞一の妻となります。

黒田家では嗣子の清仲が爵位を継いだものの、独身だったため、子供がいませんでした。

しかも彼は病弱だったため、32歳の若さで亡くなるのです。


黒田清隆直系の跡取りは、ここで途絶えてしまいました。

そこで縁戚の黒木為楨(くろき ためもと)の三男・黒木清(くろき きよし)が、清仲の養嗣子となります。

清は黒田家と爵位を相続しますが、彼もまた子供がいませんでした。

そこで今度は、黒田と生涯交流があった榎本武揚のひ孫に跡を継がせます。

黒田家と榎本家は互いに結びつくことで、何とか現代まで家を存続させてきたのです。

榎本のひ孫にあたる、黒田家4代目当主は、1930年生まれの黒田清揚(くろだ きよあき)さんです。

両家の血を継ぐ清揚さんは、これまで自身の家系について語ることはありませんでした。

しかし80歳を超えたことで、祖先の汚点も含めて、証言をするようになったのです。

たとえば長州との政争の際、清隆が薩摩藩の商人の甘言に乗ってしまい、政府内で嫌われたことがあったそうです。

清揚さんは、「“子孫に美田を残さず”、の教えを守った」と、祖先の失敗をユーモラスに語り継いでいます。

歴代内閣総理大臣の中では、大した業績も残さず、醜聞の多かった黒田。

子孫としては沈黙を守り通すつもりだったはず。

しかし清揚さんは、人生の残り時間が短くなってきたことで、「祖先のことを語り継いでおこう」と決意できたのでしょう。

酒による不祥事

清隆の醜聞は、主に酒癖の悪さに起因しています。

ストレスを酒で発散させていたようで、晩年は飲酒で体調を崩し、59歳で脳出血により死去。

生前から酒によるトラブルを度々起こしていたため、身内や郷里の人々から見放された末に亡くなったようです。

とくに有名なトラブルは、開拓長官時代に酔っぱらった末、陸をめがけて大砲を放ったエピソード。

彼が放った大砲は、数件の民家を破壊。

漁師の娘が1人亡くなるという、最悪の事態を招きました。

清隆は殺人罪に問われましたが、示談金を払い解決させています。

1878年(明治11年)に妻の清子が亡くなると、清隆が殺害したという疑惑が生じました。

清隆は酒を飲むと決まって大暴れしていたため、「妻を斬り殺した」という噂が流れたのです。

妻から芸者遊びをとがめられたため、逆上して日本刀を抜き、彼女を袈裟懸けに斬り倒したとされています。

通報を受けた大警視・川路利良(かわじ としよし)は、「医師に“病死”と診断させる。家人たちは口外しないように」と言いました。

彼は清隆と同じ薩摩藩出身だったため、トラブルを治めようと取り計らったのでしょう。

マスコミが騒ぎ始めると、清子の墓を開け、医師に死因を「肺病」と断定させました。

結果的に騒動は治まったといわれています。

妻の死に関する一連のエピソード自体が捏造の可能性もありますが、清隆が恐ろしい酒乱だったことは間違いありませんね。

黒田清隆と黒田官兵衛の関係は?

ネット上では、清隆と黒田官兵衛の関係を気にする声が見られます。

黒田官兵衛は、豊臣秀吉の側近であり、知略に秀でた軍師でした。

2014年には大河ドラマ『軍師官兵衛』で描かれ、岡田准一さんが主演を務めましたね。

清隆と官兵衛の関係を調べましたが、両者に血のつながりはありませんでした。

ただし官兵衛の黒田家については、正確な資料がない状況とされています。

新資料が発見され、遠い親戚だったことがわかる可能性もありますが、現時点で両者は赤の他人同士です。


官兵衛の黒田家は、『寛永諸家系図伝』によると、現在(2023)の滋賀県長浜市木之本町黒田の出身とされています。

一方清隆は薩摩藩出身で、実家の黒田家は家禄4石の下級武士でした。

たまたま同じ「黒田姓」だったというだけで、2人はとくに関係がないといえますね。

北海道開拓の功績

醜聞が目立った清隆ですが、北海道開拓という功績も残しています。

1870年(明治3年)、樺太でロシアの圧力が増したことで、清隆は樺太専任の開拓次官に就任。

現地を視察し、「樺太は3年も保たない」と結論づけ、北海道開拓への着手を決意しました。

やがて開拓次官から長官となり、北海道開拓に従事します。

開拓時には函館戦争で敗戦した兵を採用。

さらに彼が育成した屯田兵(とんでんへい)は、西南戦争で高い能力を発揮しました。


またクラーク博士に代表されるお雇い外国人を招き、教育改革を進めたのも清隆の功績です。

トラブルに事欠かなかった清隆ですが、歴史に残る大きな足跡を残したのも事実。

歴史ドラマや小説でも、過度に悪い姿ではなく、実像に近い姿が描かれるとよいですね。

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