南部陽一郎の天才エピソード。息子も学者?家族と妻、生い立ちと被災

2008年にノーベル物理学賞を受賞した理学博士の南部陽一郎(なんぶ よういちろう)さん。

2021年には生誕100年を迎え、業績が再び注目を集めています。

物理学の専門家たちから「天才」と尊敬される彼は、具体的にどのように偉大だったのでしょうか。

今回は南部さんが、いかに天才的だったかうかがえるエピソードをご紹介します。

併せて息子、家族、妻の情報を確認し、彼の人となりを探ってみましょう。

南部陽一郎のプロフィール

本名:南部陽一郎

生年月日:1921年1月18日

死没:2015年7月5日

身長:不明

出身地:福井県福井市

最終学歴:東京帝国大学理学部物理学科(現在の東京大学)

南部陽一郎の天才エピソード

まず南部さんがいかに天才だったか物語るエピソードを見ていきましょう。

彼は「直観的な天才」として知られていました。

小学生の頃には祖父母の家で鉱石ラジオの部品を見つけ、自ら組み立てたそうです。

説明書を参照しながらも、基本的には自分の頭で考え、小学生でありながら自力でラジオを完成させたといいます。

興味を持ったことに対しては、自ら手と頭を動かしつつ、参考資料を見つけ出す能力が高かったのでしょう。

彼の関心は物理のみならず、文学、語学など、文系分野にまで及びました。

少しでも関心を持ったものはとことん研究していたため、非常に物知りな子供に成長します。

旧制中学時代には、「先生に質問するより、南部に聞け」とさえ言われたそうです。

物理学者になってからは、持ち前の知識と鋭い洞察力で、常に先を見越して行動。

周囲からは「予言者」と呼ばれ、「10年先を知りたいなら、南部に聞け」と言われていました。

2008年にノーベル物理学を受賞した際の業績は、「自発的対称性の破れ」。

彼の理論によると、宇宙は誕生時、物質と反物質が同じだけ存在する「対称な世界」でした。

しかし「自発的対称性の破れ」により、素粒子が質量を持ったため、「対称な世界」が崩れて現在に至るそうです。

難しい理論ですが、南部さんはシカゴ大学での受賞会見を例に出し、わかりやすく説明しています。

会見時、記者たちは全員が南部さんの方を向いていました。

物理法則的には、「どちらを向け」という決まりがないにもかかわらず、全員が同じ方向を向いているのは本来おかしいこと。

会見する南部さんという存在さえいれば、本来どちらを向いてもいいはずの顔が、特定の方を向いてしまうのです。

これもまた一種の、「自発的対称性の破れ」なのだといいます。

彼はふとした瞬間に起きる現象を、自身の研究と結びつけることのできる人でした。

基本的には孤独を愛し、決して群れなかった南部さん。

周囲が彼のノーベル賞受賞に沸き立っていたときも、彼は1人でコーヒーを飲みながら、さらに先の研究を見据えていたのでしょう。

南部陽一郎の息子は?

南部さんの息子について、詳しい情報はありません。

子供が何人いるかの詳細は公表されていませんが、少なくとも息子が1人いることがわかっています。

息子は南部潤一さんで、父が亡くなった2015年時点で64歳でした。

「物理のことはよくわからない」と語っているため、父とは異なり一般的なサラリーマンだったのかもしれません。

父の死後は、積極的に彼の業績を伝える講演活動を続けてきました。

ただ「物理はわからない」としつつも、天才のDNAを継いでいるため、一般の人々よりは物理の理論に詳しいはず。

ある程度の基礎知識を土台に、父の人柄を後世に発信し続けているのでしょう。

南部陽一郎の家族 

南部さんは長年研究に励みながら、妻と息子を支え続けました。

彼は妻の実家がある大阪府で暮らしていましたが、幼少期は福井県福井市で育ったそうです。

東京で生まれたものの、2歳で関東大震災に遭遇。

焼け野原となった東京を離れ、父の故郷である福井県に引っ越したのです。

父は南部吉郎さんといい、福井県立丸岡高等学校の教頭を務めたインテリでした。

科学に関心の強い息子のために、吉郎さんは科学雑誌を渡していたそうです。

南部さんの早熟な才能は、父親譲りだったようですね。

関東大震災をきっかけに福井県へ転居した南部親子。

しかし吉郎さんは1948年、今度は福井大震災を経験するのです。

教頭を務めていた丸岡高校でも、教職員の犠牲者が出てしまいます。

一命をとりとめた吉郎さんは「心の余震」という文章の中で、犠牲者を弔ったのち、希望を胸に明日を生きていく決意を述べました。

2度の大震災を生き残った彼は、今ある命に感謝しながら、懸命に生き続けた人物だったのでしょう。

妻との出会いはゴルフクラブ

南部さんの妻は、飛田智恵子(ひだ ちえこ)さんという女性です。

彼が宝塚市で、陸軍の短波レーダーを研究していた際に知り合いました。

出会いは宝塚市内のゴルフクラブで、智恵子さんの方が彼に一目惚れします。

2人は1942年に結婚。

7年後に南部さんは大阪市立大学理工学部の助教授に就任します。

以来、妻の実家がある大阪府豊中市から出勤していたそうです。

彼は1952年、アメリカのプリンストン高等研究所に招かれ、18年後には米国籍を取得。

以降はシカゴに暮らしていましたが、智恵子さんの実家がある大阪府豊中市にも年3回ほど帰っていたそうです。

大阪府の自宅に帰った際は、およそ1か月ずつ滞在。

滞在期間中には、招聘教授として週2回ほど大阪大学にも顔を出していました。

シカゴと大阪を往き来しながら研究に励み、2008年に長年の成果が認められ、ノーベル賞を受賞したのです。

夫から受賞を報告された智恵子さんは最初、「冗談はやめて」と半信半疑で返事をしたそうです。

それだけ長い間、候補になりながら、なかなか受賞が叶わなかったのでしょう。


彼の長い研究生活を、智恵子さんは陰で支え続けていたに違いありません。

ノーベル賞受賞は夫婦2人の努力が報われた結果だったといえますね。

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