仁科芳雄、子孫も研究者。生家と家系図まとめ。サイクロトロン、ノーベル賞との関係

日本における「現代物理学の父」とされている仁科芳雄(にしな よしお)。

彼の影響を受けた湯川秀樹や朝永振一郎らはノーベル賞に輝いており、多くの偉大な学者を育てたといわれています。

今回は仁科の人となりを探るため、子孫、生家、家系図についてまとめます。

併せて、最大の業績である「サイクロトロン」の研究、ノーベル賞との関係についてご紹介しましょう。

仁科芳雄のプロフィール

本名:仁科芳雄

生年月日:1890年12月6日

死没:1951年1月10日

身長:不明

出身地:岡山県浅口郡里庄町

最終学歴:東京帝国大学大学院工科(現在の東京大学大学院)

仁科芳雄の子孫も研究者

まず仁科の子孫について確認します。

仁科の長男・仁科雄一郎さんと、次男・仁科浩二郎さんは、父と同じく研究者の道を進みました。

1930年生まれの雄一郎さんは、東京大学工学部電気工学科を卒業後、アメリカへ留学。

アイオワ州立大学大学院物理学専攻へ進み、1960年に博士号を取得しました。


MIT国立強磁場の研究所研究員を経て、東北大学金属材料研究所の教授に就任。

半導体の磁気と光効果の実験に励みました。

次男の浩二郎さんは1932年生まれで、1957年に東京大学理学部物理学科を卒業。

日本原子力研究所を経て、ミシガン大学で原子力工学の博士号を取得しました。

名古屋大学工学部講師から助教授を経て、1985年には教授に就任。

原子炉物理学を研究し続け、名古屋大学の名誉教授となりました。

原子力研究の第一人者として活躍する傍ら、『父芳雄の留学生活』や『仁科芳雄』など父に関する著作を発表しています。

彼らにも子供がいる可能性は高いですが、情報はありません。

ただ仁科家は代々インテリのため、仁科の孫にあたる人々も、研究職に従事しているかもしれませんね。

岡山県の生家は観光スポット

仁科の生家は岡山県の浅口郡里庄町にあり、歴史的な観光スポットとして人気です。

江戸時代、仁科家は庄屋として栄えていました。

生家は庄屋時代の面影を残す元屋敷で、簡素ながら風格を感じさせる建造物です。

1978年、仁科の兄・仁科亭作の子孫が生家を里庄町へ譲渡。

屋敷は解体修復され、無料で一般公開されるようになりました。

庭では仁科が身体を鍛えるため冷水を使った井戸や、彼が愛したとされる梅の老木や泰山木を見学可能。

屋敷の2階には彼が過ごした子供部屋も現存しています。

通り抜ける風が心地いい子供部屋で、偉大な物理学者の幼少期に思いを馳せてみるのも楽しいでしょう。

仁科芳雄の家系図まとめ

仁科は、農業と製塩業を営む仁科存正(にしな ありまさ)の第八子四男でした。

母の津弥(つね)は9人の子供を産んでおり、仁科は多くの兄弟と共に育ったそうです。

祖父・仁科存本(にしな ありもと)は、里庄町の代官を務めていました。

明治維新によって大名制度がなくなったものの、存本は最後の名代官として地方を立派に治めたそうです。

代々武家だった仁科家は、明治時代に入ると製塩業を開始。

父・存正は製塩を研究しながら、土地の人々にも製塩技術を広め、人望を獲得したそうです。

仁科も物理学者の中では非常に人柄がよく、多くの人々に慕われました。

彼の立派な人格は、先祖代々から受け継がれたものだったのでしょう。

サイクロトロン研究とは

仁科最大の業績は、「サイクロトロン」の研究です。

サイクロトロンとは、現在の加速器の土台となった、円形加速器の一種。

強度の高い陽子や重陽子ビームを生じさせるため、これによってRI検査も可能になったのです。

理化学研究所所属の仁科は1937年、国内初のサイクロトロンを建造。

日本における原子核物理や放射線の研究をスタートさせます。

1940年には、彼のサイクロトロンによって作られたナトリウムやリンが、生物の代謝研究に使用されました。

1943年には世界最大級の大型サイクロトロンを開発。

しかし1945年、東京大空襲により理化学研究所の施設が被災。

サイクロトロンは被災を免れたものの、終戦と共に運転を停止します。

しかしサイクロトロンの目的を、軍事利用と誤解した米軍によって、大型サイクロトロンは破壊されました。


研究成果を破壊された仁科は、非常に落ち込んだそうです。

ただサイクロトロンは戦争に翻弄されただけでなく、今でも彼の業績を平和な形で体現しています。

仁科の生家の庭には、サイクロトロンの技術で改良された桜が植えられているのです。

サイクロトロンによって改良された桜は、「仁科蔵王」「仁科乙女」として各地で花を咲かせ、彼の業績を今に伝え続けています。

今後、仁科の技術が本当に軍事利用されないよう、平和な時代が続くことを願ってやみません。

仁科芳雄とノーベル賞の関係

仁科は原子力研究の第一人者であり、広島に投下された最新爆弾を「原子爆弾」と断定した人物でもあります。

非常に優秀な研究者でしたが、彼自身はノーベル賞を受賞していません。

しかしノーベル賞を受賞できるほどの、実力ある人物だったことは確かでしょう。

実際、仁科から影響を受けた湯川秀樹や朝永振一郎は、ノーベル賞受賞者となりました。

朝永にとって仁科は、「雲の上の存在」であると同時に、気さくで話しやすい恩師でもあったそうです。

仁科研究室のモットーは、「よく学び、よく遊ぶ」こと。

自由闊達に議論し、楽しく研究できる、のびのびとした風土の研究室だったそうです。

朝永は仁科の影響を受けながら、戦時下でも研究を続け、1965年にノーベル物理学賞を受賞しました。

規律を重んじる研究室であれば、斬新な発想や研究の醍醐味を味わえなかったはず。


仁科が築いた自由な風土が、朝永のような「物理マニア」を生み出し、ノーベル賞受賞者輩出に貢献したのでしょう。

未来のノーベル賞受賞者を目指すなら、仁科のように自由を重んじる恩師を見つけることが大切かもしれませんね。

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