幕末の英雄として人気の勝海舟(かつ かいしゅう)。
剣豪だったという情報や、船乗りとして咸臨丸(かんりんまる)を操縦したという伝説が語り継がれてきましたね。
今回は英雄である海舟の実像に迫ってみましょう。
まず彼が愛用した刀、剣術の腕前の詳細を確認します。
続いて船の操縦は本当にうまかったのか、船酔いしていたという情報に迫ります。
さらに観光スポットとして人気な、赤坂の邸宅跡地もご紹介しましょう。
勝海舟のプロフィール
幼名:勝麟太郎(かつ りんたろう) ※のちに義邦(よしくに)、安芳(やすよし)と改名
生年月日:1823年3月12日(文政6年1月30日)
死没:1899年1月19日
身長:推定157cm前後
出身地:江戸本所亀沢町(現在の東京都墨田区両国)
最終学歴:長崎海軍伝習所
勝海舟の愛用した刀
まず海舟が愛用した刀を見ていきます。
彼がとくに愛用した刀は、水心子正秀(すいしんしまさひで)です。
若しかして:水心子正秀?
※活撃の勝 海舟 pic.twitter.com/YgPyfWcQdi— 柴田 権六郎 勝家@雁姫 (@wild_goose_hime) February 23, 2020
匠刀房から坂本龍馬・西郷隆盛・勝海舟 各愛刀と備前長船の高級居合刀モデルが登場!
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西郷隆盛愛刀 伊勢千子村正https://t.co/GKNWcmb80I
勝安房海舟愛刀 水心子正秀https://t.co/AKtG6SOnUc
備前長船祐定https://t.co/KqVsQVAPgN pic.twitter.com/LL4ky1pGAf— しのびや.com (@shinobiya_owner) September 14, 2020
作刀したのは、現在の山形県赤湯出身の刀工・水心子正秀。
江戸末期に活躍し、多くの門弟を育てた人物です。
太平の江戸時代に衰退していた刀剣作りに、「古刀」の鍛錬法を復活させ、大きな足跡を残しました。
海舟は殺りくを嫌い、生涯で1度も人を斬らなかったとされています。
そのため水心子正秀を抜くことはありませんでしたが、大切に持ち歩いていたようです。
またもう1本、海舟虎徹(かいしゅうこてつ)という刀も愛用していました。
長年の功績によって、徳川慶喜将軍から贈られたと伝わっています。
作刀した刀工は長曽祢虎徹(ながそね こてつ)。
正宗(まさむね)と並び称される、刀の名工です。
彼の刀は切れ味がよく、多くの大名を魅了したといわれています。
刀は海舟も愛用したため、やがて「海舟虎徹」と呼ばれるようになりました。
1度も血に染まらなかった2本の刀は、海舟の人柄を物語る、重要な資料といえますね。
剣術の腕前
海舟は人を斬らなかったことで有名ですが、剣術については10代の頃に直心影流(じきしんかげりゅう)を極めた名手でした。
師匠である島田虎之助からすすめられた禅も学びながら、直心影流剣術の免許皆伝となります。
海舟本人が、「真剣に修行したのは剣術ばかり」と語ったほど、若き日は剣術に明け暮れていたそうです。
それだけ熱心に修行したのであれば、確実に強い剣豪だったはず。
実は彼の父・勝小吉が、「幕末の剣聖」と呼ばれた男谷精一郎の従兄だったそうです。
親戚に剣豪がいる限り、一家の名折れにならぬよう、必死に修行したのは当然ですね。
勝海舟は船の操縦が苦手だった
海舟は剣術と並び、船の操縦にも秀でていたイメージが定着しています。
海軍伝習所で学び、のちに海軍卿になった経歴から考えると、いかにも船の操縦に精通していそうですね。
とくに彼と船を結びつける有名なエピソードは、咸臨丸の渡米でしょう。
徳川幕府の軍艦だった咸臨丸は、遣米使節団の護衛船でした。
海舟が操縦を担当し、見事に太平洋を渡り切ったイメージが強いですね。
1974年度のNHK大河ドラマと同時連載されてた、石川賢先生の「勝海舟」。咸臨丸よりもイーグル号を操縦しそうなド迫力。リアルタイムで読んでた時は絵が怖かったw pic.twitter.com/c3kTlF1eCs
— cean-sj2017 (@19752003jp) November 22, 2020
しかし実情はまったく異なりました。
実際の海舟は船の操縦が苦手だったものの、自身のイメージアップを図り、咸臨丸での出来事を誇張して語ったようです。
勝海舟の船酔い
咸臨丸で海舟は、軍艦奉行・木村喜毅(きむら よしたけ)の下で教授方頭取に就任。
いわば木村が提督で、海舟が艦長でした。
しかし出航するや、海舟は船酔いに見舞われ、船室にこもってしまったのです。
結局アメリカに着くまで、船室から3回しか出てきませんでした。
船に関する知識は豊富だったものの、操縦となると、からっきしダメだったようですね。
海舟は自身を伝説化するため、あたかも自分が咸臨丸を操縦したようにアピールし続けたのでしょう。
英雄である彼の、人間らしく微笑ましい一面がうかがえるエピソードですね。
勝海舟の赤坂邸宅跡
海舟は1871年(明治4年)の廃藩置県以降、政府の命令により東京で暮らしました。
廃藩置県の翌年から、赤坂氷川神社付近に居を構え、生涯のほとんどを赤坂で過ごしています。
彼の邸宅は、今の「本氷川坂」の下にありました。
邸宅は現存していませんが、跡地であることを示す案内看板があります。
勝海舟邸跡(東京都港区)
勝海舟の邸宅跡。赤坂氷川神社近くの本氷川坂下に安政6(1859)年から明治元(1868)年まで住んでました。#神社 #赤坂 #赤坂氷川神社 #本氷川坂 #勝海舟 pic.twitter.com/7nDxSjiaQU
— 匕〒''キ@イシ夕'' (@hideki27fc5) April 25, 2018
また赤坂には海舟と坂本龍馬の銅像もあるため、幕末ファンであればきっと気分が盛り上がるでしょう。
重さんと勝さんを斬りに行った先で心服させられるとはどんだけスゴいんじゃ勝さん( ; ゜Д゜)
この二人の像いいなぁ(*´∇`*)#勝海舟#坂本龍馬#さくらば pic.twitter.com/9dQSVpDeVZ
— 佐々井隆文@BI (@t_chacha) February 9, 2020
赤坂は幕末の志士に憧れる人々にとって、最高の聖地といえます。
海舟や邸宅を訪れたであろう坂本龍馬に思いを馳せながら、赤坂周辺を歩いてみれば、感動すること間違いなしですね。
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