中江兆民の思想とエピソード&福沢諭吉と違い。東洋のルソー、留学先は長崎?

自由民権運動の思想面での指導者とされる中江兆民(なかえ ちょうみん)。

彼の具体的な思想や人柄を知らない人も多いかもしれませんね。

今回は兆民の思想について見ていき、人柄がわかるエピソードをご紹介します。

併せて、よく比較される福沢諭吉との違い、「東洋のルソー」と呼ばれたゆえん、長崎留学の詳細を見ていきます。

中江兆民のプロフィール

本名:中江篤介(なかえ とくすけ)

生年月日:1847年12月8日(弘化4年11月1日)

死没:1901年12月13日

身長:不明

出身地:高知県高知市

最終学歴:大学南校

中江兆民の思想はフランスの共和思想

兆民はどのような思想の持ち主だったのでしょうか。

彼は思想家として自由民権運動へ参加し、多大な影響力を持ちました。

のちほど触れますが兆民の思想は、18世紀フランスの哲学者・ジャン=ジャック・ルソーから影響を受けたものです。

ルソーの思想の根幹を成していたのが、「一般意志」という理念。

18世紀のフランスは国王が国を支配する「絶対王政社会」でした。

国民の意見は政治に反映されない、不平等な君主制社会だったのです。

ルソーは「国家成立には、一般意志が不可欠」と述べ、個人的な感情を除く全国民共通の意志が、平等な社会を作ると主張。

彼の考えは、政治が国民の自由と平等を守るべきという「共和思想」と呼ばれます。

人間の自由と平等を保障することを是とし、党派政治や政治家による抑圧を排した「共和国」の成立を促す言論のことです。

当時の日本は18世紀フランスと同じく、天皇がトップに立ち、人民を統治する状況にありました。

兆民は「東洋自由新聞」を刊行し、天皇制と明治政府を批判。

日本においてフランスの共和思想を普及させ、自由民権運動を推進し、社会を変革していくのです。

中江兆民の破天荒エピソード

自由民権運動の思想面でのリーダーだった兆民ですが、実はかなり破天荒な性格だったそうです。

有名なエピソードは、芸者と遊んだのち、昼間にもかかわらず往来へ下半身を向けたという話。

さらに紙幣およそ100枚を、芸者たちへ向けてばらまき、「ああ愉快」と言ったそうです。

酒の席では股間まで出して裸踊りをしたとのこと。

当時は酔った男の裸踊りは、日常的に見られた風景だったようですが、現代であれば警察のお世話になりかねない行動ですね。

さらに兆民の場合は、縁談時も裸踊りを披露したため、破綻してしまったそうです。

日常的に常軌を逸した行動をしていた兆民は、仕事中にも変わった行動をとっていました。

衆議院議員だったとき、強烈な赤色のトルコ帽を被り、国会へ登院したことがあるそうです。

しかも彼が持参したタバコ入れに、「火の用心」と書かれていたため、周囲の目を引いたようですね。

人々は兆民を「変わり者」として受け入れていたのでしょう。

現代では、「政治家にもかかわらず不真面目」として批判の対象になりそうですね。

当時は激動の時代でありながら、今よりも大らかな世の中だったのかもしれません。

中江兆民と福沢諭吉は時代の敗者と勝者

兆民と福沢諭吉は、いずれも自由民権思想の思想家として有名なため、よく比較対象にされます。

「2人の違いがわからない」という人も多いかもしれませんね。

2人はいずれも使節団の一員として西欧を視察していますが、帰国後の行動は異なりました。

具体的な違いを見ていくと、兆民はルソーの共和思想を説き、明治政府への批判を続けます。

自由民権運動を成功させたのちは、衆議院議員となりましたが、藩閥政治を批判して辞任。

自由民権運動家としてはカリスマ的だったものの、政治家としては実績を残せなかったのです。

そして失意のうちに、喉頭がんにより54歳で亡くなります。

一方で福沢は、国家の近代化のため、脱亜入欧を推進。

兆民が嫌った搾取をも手段に用いて、国家の発展を推し進めた結果、自身のキャリアも前進させていきました。

つまり兆民は理想と現実の板挟みとなり、時代の敗者となったのに対し、福沢は見事に勝者となったのです。

不器用な兆民の方が、時代に合わせて生きられる福沢に比べると、人間的な人物だったのでしょう。

『社会契約論』の翻訳により東洋のルソーと呼ばれる


兆民はルソーと直接関わったわけではありませんが、彼の思想を日本へ紹介したことで、「東洋のルソー」と呼ばれました。

幼少期からフランス語に親しんでいた彼は、1882年(明治15年)、ルソーの『社会契約論』を漢語に訳します。

『民約訳解』と題された漢語訳版の『社会契約論』は、兆民独自の注釈も加えたことでわかりやすくなり、民衆にも普及しました。

結果的に彼は「東洋のルソー」と呼ばれ、自由民権運動の思想的指導者としての地位を確立したのです。

中江兆民の長崎留学

兆民は藩校「文武館」で外国語を学んでいたため、1865年(慶応元年)9月、土佐藩派遣の留学生に選ばれました。

赴いた先は長崎です。

江戸時代の長崎は、日本と諸外国を結ぶ唯一の窓だったため、医学や蘭学を学びたい知識人にとってあこがれの留学先でした。

兆民は長崎留学中、郷土の先輩・坂本龍馬と出会い、彼のためにタバコを買いに行ったこともあるそうです。

そしてフランス語の修得に努めたのちの1871年(明治4年)、ついに司法省からフランスに派遣されました。

3年後に帰国すると仏学塾「仏蘭西学舎」を開き、語学や思想を教えるようになるのです。


大好きなフランスの言語や思想、文化にのめり込んだ一時期は、兆民にとってもっとも楽しい日々だったのでしょう。

志半ばで倒れたものの、フランス思想の普及を続けた生涯は、全体的に見ると充実していたに違いありませんね。

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