「近江聖人」と呼ばれた江戸時代の陽明学者・中江藤樹(なかえ とうじゅ)。
今回は藤樹の思想である陽明学の知行合一(ちこうごういつ)について、具体的な内容を確認しましょう。
また子孫が思想家の中江兆民なのか確認しつつ、親孝行で知られた藤樹の、母とのエピソードも見ていきます。
中江藤樹のプロフィール
幼名:原蔵、藤太郎
生年月日:1608年4月21日(慶長13年3月7日)
死没:1648年10月11日(慶安元年8月25日)
身長:約160cm
出身地:近江国高島郡(現在の滋賀県高島市)
中江藤樹の思想。陽明学の知行合一
藤樹は日本における陽明学の祖として、身分格差のない平等な社会を提唱しました。
彼の思想は、武士や庶民など幅広い層に浸透したとされています。
そもそも陽明学は、16世紀明(みん)の時代の中国で、王陽明(おう ようめい)が創始した学問です。
朱子学と共に儒学をルーツとする学問ですが、知識偏重の朱子学に対し、実践力を重視したのが陽明学です。
陽明学の基本理念は「知行合一」。
知識と行動は一体であり、学んだことを実践できることが、真の学びであるという意味です。
大洲藩主だったという陽明学者・中江藤樹。その教え「知行合一」とは、知識として知っていても行動しなければ知らないと同じ、知識があるなら行動しなさい、ということ。幕末の志士たちに影響を与えた。私もそうありたい。 pic.twitter.com/Gxqe9FcnjK
— いつみみふね (@skytree222) August 16, 2015
身分格差を重んじる朱子学は、鎌倉時代以降に日本で広まり、江戸幕府でも秩序維持のため重視されます。
伊予大洲藩に仕える朱子学者だった藤樹は、次第に朱子学だけでなく、徐々に陽明学も学び始めます。
結果的に彼は陽明学者へ転身し、日本における陽明学の礎を築くのです。
藤樹は陽明学の基本「孝」の本質を「愛敬」と述べ、身分にかかわらず、すべての人に対して誠実に接するべきと主張。
陽明学における孝行は、親孝行だけでなく、あらゆる人を思いやる行動のことを示すのです。
一善をすると一悪が去る。日々善をなせば、日々悪は去る。 中江藤樹#陰徳 #知行合一 pic.twitter.com/0QBjkX2ivf
— Kamenasy Junonsuke (@move_prana) March 22, 2015
道徳的な陽明学は、実践力が高く正義感の強い人々が好むようになります。
結果的に朱子学を重んじる江戸幕府は、陽明学が批判勢力になることを恐れ、排除しようとしたのです。
藤樹は陽明学を通して、身分格差のない民主的な社会の大切さを、いち早く主張した人物といえますね。
彼は故郷の近江(現在の滋賀県)で、私塾「藤樹書院」を開き、陽明学を講義しました。
陽明学者の熊沢蕃山(くまざわ ばんざん)は、藤樹の代表的な弟子です。
蕃山は備前岡山藩に仕え、貧しい農民を救済するため奔走しました。
貧しい人々を心から思いやっていた彼は、まさに師匠の教えを実践していた、理想的な陽明学者だったといえるでしょう。
中江藤樹の子孫は?中江兆民は他人
藤樹の子孫について見ていきましょう。
『さて又家をおこすも子孫なり、家をやぶるも子孫なり。子孫に道をおしえずして、子孫の繁昌をもとめるは、足なくて行くことを願うに等し。』中江藤樹の言葉 ごもっとも。まずは自分が我が子に道を教えていかなければ。 #sougofollow
— 植村 真太郎 (@s_uemura) September 22, 2010
藤樹と同じく、従来の国の在り方を思想面で変革しようとしたのが、明治時代の思想家・中江兆民です。
苗字が同じということもあり、「兆民は藤樹の子孫では?」と考える人もいるでしょう。
兆民はフランスのジャン=ジャック・ルソーの影響を受け、共和思想を唱えて自由民権運動を指導しました。
ルソーの著作『社会契約論』の漢訳版『民約訳解』を発表し、「東洋のルソー」と呼ばれた人物です。
江戸時代、日本陽明学の祖は、中江藤樹。
キャッチフレーズは、近江聖人!明治時代、自由民権運動家で『民約訳解』を著したのは、
中江兆民。
キャッチフレーズは、東洋のルソー!— 日本史 予備校講師の私立大学受験用語bot (@mastedtei) March 10, 2019
人民中心の公平な社会を理想とした姿勢は、やや藤樹に通じるものがあるようですね。
しかし2人に血縁関係はなく、あくまで苗字が同じ他人同士です。
藤樹は30歳のとき、伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘である17歳の久と結婚しました。
久は非常に聡明で、家事にいそしみつつ、部屋から聞こえてくる夫の講義をよく理解していたそうです。
しかし彼女はわずか26歳で亡くなったため、子供はいませんでした。
藤樹は再婚したものの、彼も間もなく40歳で亡くなります。
結果的に直系の子孫は途絶えてしまったのです。
今も遠縁の子孫がどこかに暮らしている可能性はありますが、藤樹の子孫と断言できる人物の情報はないのが現状。
才能ある夫婦に子供がいたとすれば、きっと社会に貢献し、名前を残していたかもしれませんね。
母とのエピソード
「孝」を重んじた陽明学者にふさわしく、彼は非常に親孝行な息子だったそうです。
彼は幼少期、近江にいる両親と離れ、遠く米子にいる祖父・徳左衛門吉長の養子となりました。
祖父の元で勉学に励んでいた時期、母からの手紙に「あかぎれができるので困る」と書かれていました。
そこで藤樹はあかぎれに効く薬を持って、雪道を何日もかけて歩き、米子から近江に向かいます。
ようやく実家に帰りついた藤樹を見て、井戸で水仕事をしていた母は驚きました。
彼が、母のためにあかぎれ用の薬を持ってきたことを伝えると、彼女は厳しい顔になります。
「立派な人になるまで家には帰らないと誓ったはず。約束を破って持ってきた薬など欲しくない」と厳しい言葉をかけたそうです。
藤樹は母の言葉にうなずき、再び雪道を引き返しました。
母としては息子を抱きしめたくてたまらなかったはず。
しかしここで彼を甘やかしては、藤樹は立派な人物に成長できなくなってしまうと考えたのでしょう。
母子のエピソードは講談にもなり、道徳的な物語として親しまれてきました。
今日は、貞鏡さんの勉強会へ✨
善い女苦手と仰ってたけど、私は「中江藤樹の母」の方が好きだったな☺️
母性が素敵だった✨✨✨
貞鏡さんまた聴きたいなあ✨ pic.twitter.com/mPNWsDbYwn— えみ (@uwsJmmQFP6GoOAM) June 16, 2019
母から追い返されて以降、藤樹は約束を守り家に帰らず、学問に励みます。
そして修練の末、27歳で母への孝行のため故郷へ戻り、偉大な陽明学者として人々に慕われるようになるのです。
母の厳しい愛情のおかげで、簡単には折れない強靭な精神力を持つ偉人へと成長できたのでしょう。
偉人を育てた人物も、やはり偉人だったといえますね。
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