三菱財閥の創業者であり、海運業で巨万の富を得た実業家・岩崎弥太郎(いわさき やたろう)。
2010年の大河ドラマ『龍馬伝』では、坂本龍馬の幼馴染みとして登場しましたね。
今回は偉大なる三菱創業者の家系図に迫りつつ、実際の龍馬との接点を確認します。
併せて岩崎家の家紋と、三菱と丸の内の関係も見ていきます。
岩崎弥太郎のプロフィール
本名:岩崎弥太郎
生年月日:1835年1月9日(天保5年12月11日)
死没:1885年2月7日
身長:推定約174cm
出身地:土佐国安芸郡井ノ口村一ノ宮(現在の高知県安芸市井ノ口甲一ノ宮)
岩崎弥太郎は三菱創業者
三菱財閥の創業者であり、初代総帥も務めた弥太郎。
元々は土佐藩の貧しい地下浪人の長男でした。
岩崎家は郷士でしたが、弥太郎の曾祖父の代から生活が苦しくなり、身分を売って地下浪人となります。
弥太郎はハングリー精神と並外れたビジネスの才能を武器に、貧しい境遇からのし上がりました。
同じ土佐藩出身の武士・後藤象二郎は、弥太郎の才能を見抜き、藩の財務をまかせるようになります。
三菱創設者 岩崎家の庭園へ!和室から洋室まで、非常に豪華で、さすが岩崎家!としか言いようがありません😎#岩崎弥太郎 #三菱 #庭園 #Mitsubishi pic.twitter.com/9vcOUQhIcr
— 南山紘輝 (@nlpcoachjp) November 6, 2018
そして1871年(明治4年)、弥太郎は三菱の前身「九十九商会」の経営者に就任。
同社は何度か社名変更したのち、1874年(明治7年)に「三菱蒸気船会社」となり、日本橋の南茅場町で運営を開始します。
さらに岡山県の吉岡銅山を手に入れ、鉱山事業を展開し、現在の三菱マテリアルの礎を築きました。
弥太郎は優れたビジネスの才能を活かし、貪欲に利益を獲得し続け、三菱を発展させたのです。
岩崎家の家系図、三菱経営者は断絶
1885年(明治18年)、弥太郎が亡くなると、弟の弥之助が社長に就任。
彼は三菱を共同運輸会社と合併させ、「日本郵船」の誕生に関わります。
これまで三菱が独占していた海運部門を切り離し、鉱山開発や地所、金融事業を発展させました。
1894年(明治27年)、三菱が合資会社に転換すると、弥太郎の長男・久弥が3代目社長に就任。
久弥は農政事業にも進出し、小岩井農場や末廣農場、海外の農場にまで経営範囲を広げました。
4代目には弥之助の息子・小弥太が就任したものの、日本が太平洋戦争に敗れると、財閥はGHQによって解体されます。
小弥太は落胆し、解体の同年に亡くなりました。
3代目の久弥も、財閥家族に認定された結果、解体と同時に全役職を辞任せざるを得なくなります。
久弥はその後、千葉県富里の末廣農場の別邸で余生を送りました。
現在、三菱グループの経営者には、弥太郎の子孫は1人もいません。
社員の中に子孫がいた時期はあるようですが、いずれも経営者に就任することはありませんでした。
財閥解体の痛手を受けた結果、岩崎家の人々は経営から遠ざかってしまったのかもしれません。
ちなみに久弥の長女・沢田美喜さんは、外交官・沢田廉三さんの妻となり、クリスチャンとして慈善事業に邁進。
戦災孤児の養護施設「エリザベス・サンダースホーム」を設立し、「2千人の戦災孤児の母」と呼ばれました。
弥太郎の子孫は、三菱と直接の接点はないものの、祖先から受け継いだ経営手腕を活かして社会に貢献していたのです。
岩崎家のDNAは、歴史に大きく影響を与え得る、偉大なDNAといえますね。
岩崎弥太郎と坂本龍馬の接点はわずか
弥太郎と龍馬の接点について見ていきましょう。
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ラテの味もカステラアイスも美味しかったぁ。#ちょっと前のこと
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大河ドラマ『龍馬伝』では、香川照之さん演じる弥太郎と福山雅治さん演じる龍馬は、幼馴染みとして描かれました。
しかし実際の2人は幼馴染みではなく、龍馬が暗殺される直前に知り合ったため、接点はわずかでした。
龍馬が土佐藩の外郭団体「海援隊」を創業した際、後藤象二郎の縁により、弥太郎が経理を担当することになります。
経済官僚の弥太郎と縦横無尽に活動する自由人の龍馬は、立場は異なりましたが、熱い志を持って政治改革に奔走した点は同じです。
弥太郎は海援隊の経理として金策に奔走し、龍馬の活動をサポート。
ドラマ内で2人は対照的な存在として描かれましたが、実際の2人は意気投合して酒を酌み交わしていたそうです。
しかし龍馬は志半ばで暗殺されてしまったため、弥太郎はわずか1年ほどしか彼と交流できませんでした。
2人が共に長生きしていれば、お互いに刺激を与え合いながら、新たな世界を創り上げていたかもしれませんね。
家紋「三階菱」は三菱ロゴマークのモデル
岩崎家の家紋は、菱形を三段に重ねた「三階菱」で、三菱のロゴマークの土台になったことでも知られています。
菱形を使用した家紋は、今の山梨県にあたる甲斐国を治めていた、武田家の家紋が有名ですね。
岩崎家は、武田家とゆかりがあったと伝えられています。
当主・武田信光の五男・岩崎信隆が、甲斐国山梨東郡を拠点として岩崎姓を名乗ったことが、岩崎家の始まりとのことです。
この伝承から考えると、岩崎家が武田家と同じ菱形の家紋を使用していることは納得できますね。
また、弥太郎の出身地である土佐藩を治めていた山内家は、「三ツ柏」の家紋で知られています。
2つの家紋を合体させた結果、今の三菱のロゴマークである「スリーダイヤ」ができたそうです。
三菱電気の創始者は、竜馬の時代の土佐藩の岩崎弥太郎、
あのマークは三つ葉柏紋といい土佐山内家の家紋。
徳川は、あおいの葉が家紋。
ちなワイの、あおいナガハマ事務所という名前も、あおいの葉が由来。 pic.twitter.com/ja0pSwyj1x
— 行政書士長濱周平 本人 (@aoiaoi75) December 3, 2019
確かに両家の要素をうまく取り入れたマークといえますね。
弥太郎はロゴマークを通し、祖先と地元の領主への敬意を表したのでしょう。
三菱は丸の内の主
現在の丸の内エリアには、かつて多くの大名屋敷がありました。
廃藩置県後は、政府が丸の内を管轄し、残された大名屋敷は陸軍の兵営街となります。
明治20年代以降は、兵営地が麻布に移転したため、丸の内は市街地に変わりました。
しかし麻布の兵営建設には、多額の資金が必要だったため、丸の内の売却案が持ち上がります。
このとき丸の内を買い受けたのが、弥太郎の弟・弥之助でした。
三菱合資会社は丸の内の所有権を獲得し、日本初の貸しビル「三菱1号館」を建設しました。
GHQによる財閥解体時は、不動産の一括譲渡を求められますが、三菱はこれを拒否します。
結果、三菱の第二会社2社を設立し、これを三菱地所と合併させるという条件で、三菱は丸の内の所有権を持ち続けるのです。
こうして三菱は、今日まで丸の内の主として君臨し続けています。
弥太郎と丸の内の直接的な接点はありませんでしたが、後世の人々の努力により、三菱は丸の内を手中に収めたのです。
彼のハングリー精神は、三菱の社風そのものに反映されているといえますね。
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