三木武夫が殴られる襲撃事件。評価と田中角栄、三木武吉との関係。あだ名の由来

クリーンなイメージを強みに活動した、第66代内閣総理大臣の三木武夫(みき たけお)。

好印象のある元総理ですが、具体的にどのような活動を行っていたのでしょうか。

まずは、三木が右翼に殴られた襲撃事件の詳細を確認します。

併せて政治家としての評価、田中角栄内閣での手腕、三木武吉との関係、あだ名について見ていきます。

三木武夫のプロフィール

本名:三木武夫

生年月日:1907年3月17日

死没:1988年11月14日

身長:160cm

出身地:徳島県阿波市

最終学歴:明治大学法学部

三木武夫、右翼に殴られる。襲撃事件の詳細

まず三木が右翼に殴られた、襲撃事件の詳細に迫ります。

事件発生は1975年6月16日。

佐藤栄作元首相の国民葬に参列していた三木を、右翼団体「大日本愛国党」の党員が襲撃しました。


三木は顔面を殴打され、倒れ込みましたが、命に別状はありませんでした。

当時の警護法では、護衛の警察官は要人を遠巻きに見守ることしかできず、暴漢に気づけなかったといいます。

事件から約3か月後の9月13日、警視庁の要人警護専門チーム「SP隊」が発足しました。

身体能力と精神力、格闘術や射撃のスキルも必要なプロフェッショナル集団です。

背広裏の装備を瞬時に取り出せるよう、常に背広のボタンを開けていることで有名ですね。

今ではドラマや映画でもおなじみのSP隊ですが、発足のきっかけは三木の襲撃事件だったのです。

警護法を変えるきっかけとなった、重要な事件だったといえますね。

三木武夫、政治家としての評価。田中角栄内閣では閣僚

三木はクリーンな政治家として知られてきました。

1972年、三木は田中角栄内閣の閣僚となります。

しかし2年後の参議院選挙で、角栄の金権体質を批判し辞任。

金脈問題によって角栄が辞任すると、後継総裁となり、内閣総理大臣に就任しました。

三木は徹底的に「クリーン」をモットーとし、汚職問題を糾明。

有名なロッキード事件でも証人を集め、詳細を明らかにしています。

汚職問題が明るみに出るのを恐れた大派閥の議員たちは、危機感を強めていきました。

そんな中で旧田中派、福田派、大平派の三大派閥が、世に言う「三木おろし」を決行します。

結局三木は1976年12月、わずか2年で辞任に追い込まれました。

自民党内から憎まれた三木に対して、左派政治家という印象を抱く人もいるはずです。

とくに角栄ファンから見れば、三木は革新的思想を持つ憎まれ役でしかありませんね。

ただ三木が汚職問題に厳しく対処したのは、あくまで自民党のためを思っていたからこそでしょう。

クリーンな党のイメージを定着させるため、並々ならぬ行動力で、自民党内の「大掃除」をしたのです。

しかし掃除の途中で辞任させられたため、自民党の憎まれ役というポジションで終わってしまったのでしょう。

そのため首相としては、あまり大きな功績を残せなかった印象があります。

彼が思惑通りクリーンな自民党を完成させ、政治的手腕を存分に発揮していれば、今とは違う日本になっていたかもしれませんね。

三木武吉とは親戚ではなく他人同士

三木と同年代に、政治家として活動していた三木武吉(みき ぶきち)。

自由民主党結党で保守合同を成立させた人物として知られています。

三木という政治家が同時代に2人も活躍していたため、おそらく当時から両人を親戚と考える人はいたかもしれません。

しかし三木武夫は徳島県の農家、三木武吉は香川県の骨董商「三木古門」の息子です。

そのため2人は血縁関係にありません。

また武吉は「ヤジ将軍」と呼ばれた、政府批判の名人でした。

大蔵大臣時代の高橋是清が海軍予算について、「陸軍は10年、海軍は8年」と説明中、「ダルマは9年」とヤジを飛ばしたそうです。

高橋のあだ名「ダルマ」と、達磨大師が9年座禅したという故事をかけた、巧みなヤジでした。

武吉のヤジに、普段は謹厳な要人たちも含め、議場の人々は爆笑。


高橋自身も苦笑したとされています。

また同じ原内閣の議会中、ある閣僚がお経を唱えるような抑揚のない口調で説明を続けていました。

説明が終わると武吉が、「次にお焼香の人はどうぞ」とヤジを飛ばし、やはり議場の人々は爆笑したそうです。

当時の議会は現代に比べると、優れたユーモアと大らかな雰囲気に満ちていたのでしょう。

舌鋒鋭い武吉は、穏健な印象のある三木武夫とは苗字が同じというだけで、対照的な政治家といえますね。

あだ名は「バルカン政治家」

貧しい境遇からのし上がった田中角栄のあだ名は、成り上がり者の太閤・豊臣秀吉にちなんだ「今太閤」でした。

今太閤に比べると知名度は低いですが、三木にも、「バルカン政治家」というあだ名がありました。

語源の元は、「バルカン諸国」です。

小国であるバルカンのイメージから、小規模政党や小派閥を率いる政治家を、「バルカン政治家」と呼ぶことがあります。

基本的には、庶民風でソフトな雰囲気を持つ、穏健な人柄の政治家が「バルカン」と呼ばれてきました。

ただ周辺諸国との関係や変化に応じて、態度を変える政治家のことも、皮肉を込めて呼ぶ場合があるようです。

近年では菅直人元首相も、政治家としての気質だけでなく、苗字にもちなんで「バル菅」と呼ばれていました。

三木は大勢力と対立しながら、小規模の政党を渡り歩いたため、尊敬の意味を込めて「バルカン」と呼ばれていたようです。


クリーンなイメージを保ち続けながらも、首相にまで上り詰めた三木。

角栄派の人々からは不人気かもしれませんが、堅実に生きることの大切さを教えてくれる稀有な政治家だったといえますね。

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