中岡慎太郎の死因、最後の言葉。坂本龍馬を暗殺?各地にある銅像

海援隊の坂本龍馬と共に、薩長同盟の実現に貢献した中岡慎太郎(なかおか しんたろう)。

近江屋事件により29歳で落命しましたが、直接の死因と最後の言葉を見ていきます。

また龍馬暗殺の黒幕が、中岡だったという情報を確認。

併せて各地にある銅像もご紹介します。

中岡慎太郎のプロフィール

通称:中岡福太郎

生年月日:1838年5月6日 (天保9年4月13日)

死没:1867年12月12日(慶応3年11月17日)

身長:推定約153cm

出身地:土佐国安芸郡北川郷柏木村(現在の高知県安芸郡北川村柏木)

中岡慎太郎の死因は出血多量。同志に向けた最後の言葉

慶応3年(1867年)11月15日、中岡は龍馬と共に、近江屋で暗殺されます。

彼は対立していた薩摩藩と長州藩を結びつけ、新しい国づくりのために奔走していました。

襲撃の前年である慶應2年(1866年)には、薩長連合を成立させます。


翌年に龍馬は海援隊、中岡は奇兵隊を参考にした軍隊・陸援隊を結成しました。

10月には大政奉還慶が成されたものの、各地での武力討伐は終わりが見えませんでした。

龍馬は武力に頼らない国づくりを目指していたため、まだ課題は山積みだと考えていたのでしょう。

一方で中岡は「新しい国づくりに武力は必要」と考えており、両者は考え方に違いがありました。

ただし志は同じだったため、2人は随時意見のすり合わせをしていたに違いありません。

慶應3年(1867年)11月15日も近江屋で今後の活動方針を相談し合っていたのでしょう。

しかし何者かに襲撃され、龍馬は頭に致命傷を負い、その場で落命。

中岡は手足28か所を斬られ、意識を失います。

意識を取り戻した際、まだ龍馬は生きており、「俺は脳をやられた。もういかん」と言い残して亡くなったそうです。

中岡は出血多量が原因で、2日後の11月17日、29歳で亡くなりました。

亡くなる前に同志へ向けて、「幕吏が迫っている。潰される前に、早く討幕してください」と言葉をかけたそうです。

中岡慎太郎は坂本龍馬暗殺の黒幕?

中岡は襲撃から死去までの2日間で、龍馬を殺した犯人について証言しています。

彼によると刺客は松山の方言で、「こなくそ」と叫びながら襲ってきたそうです。

結果、松山出身の新撰組10番隊組長・原田左之助に疑惑がかかります。

しかし今では会津藩主・松平容保が黒幕で、実行犯が京都見廻組の佐々木只三郎と桂早之助という説が有力とのこと。

襲撃犯の1人が手記に、佐々木が現場にいたことを記録しているそうです。

さらに龍馬を斬ったという桂の小太刀は、今も京都府の「霊山歴史館」に保存されています。


彼らは中岡にとどめを刺さなかったため、実は中岡が彼らと通じていて、龍馬暗殺を依頼したという説さえあるようです。

中岡が負傷したのは、龍馬の反撃にあったからとのことでした。

中岡真犯人説は、どうしても犯人を特定できないため、無理やり生み出された印象があります。

ただ彼自身に疑惑がかかってしまった点で、龍馬とはやはり考え方に相違があったことがうかがえるでしょう。

結局犯人は不明なままだからこそ、一見信ぴょう性の低い中岡犯人説も含め、検証し続ける必要がありそうですね。

銅像は高知県や京都府など各地に存在

中岡の故郷である高知県には、彼の銅像があります。

昭和10年(1935年)、中岡を尊敬していた「安芸郡青年団」が主体となり、室戸市の室戸岬町に建立しました。

手がけたのは、「土佐のミケランジェロ」と呼ばれた銅像作家・本山白雲です。

太平洋を遠く見据える銅像に、中岡の野心が見事に表現されていますね。

また京都府京都市東山区円山町にある円山公園には、中岡と龍馬の2人の銅像が建っています。

中岡はおよそ153cmと小柄だったのに対し、龍馬は173cmほどの高身長でした。

そのため銅像は身長差が目立たないよう、立っている龍馬の隣に中岡がひざまずいた形に作られました。

京都霊山護国神社にも同様の銅像がありますが、盟友同士というより主人と家来に見えてしまいますね。

きっと中岡は、龍馬と並んで歩く際、やや気後れしていたのでしょう。


身長だけでなく考え方にも、大きな差があった2人。

両者の関係性をひも解き続けることで、新たな歴史的事実がわかる日がくるかもしれませんね。

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