「世界のオザワ」として知られる指揮者の小澤征爾(おざわ せいじ)さん。
ウィーン国立歌劇場の音楽監督も務めるなど、輝かしいキャリアを歩んできました。
今回は小澤さんのすごさがわかるエピソードをご紹介しつつ、本当に天才なのかチェックします。
併せて指揮棒を持たない演奏スタイルの特徴を、理由も含めて見ていきます。
小澤征爾のプロフィール
本名:小澤征爾
生年月日:1935年9月1日
没年月日:2024年2月6日(88歳没)
出身地:満洲国奉天市(現在の中国瀋陽市)、東京都立川市
最終学歴:桐朋学園短期大学
所属事務所:ヒラサ・オフィス
小澤征爾のすごさは高い行動力と交渉術。有名エピソードを紹介
小澤さんは世界的指揮者のカラヤンやバーンスタインから高く評価されました。
なぜそこまで指揮者として評価されてきたのでしょうか。
元々はピアニストを目指していた小澤さんですが、趣味のラグビーをしていた際、指を骨折し夢を諦めました。
14歳のとき、ロシアのピアニストであるレオニード・クロイツァーが、ピアノを演奏しながら指揮する姿に感動。
指揮者を志して、音楽教育者の齋藤秀雄さんに弟子入りしました。
#斎藤秀雄 氏にはチェロをめぐる興味深いエピソードがある。宮沢賢治の『セロ弾きのゴーシュ』で、チェロが下手なゴーシュを厳しく叱る楽団の楽長のモデルが斎藤氏ではないかとする説。斎藤氏は #新交響楽団 の指揮をしていたが、その練習場を賢治が上京して見学した時期と一致しているため。 pic.twitter.com/HWKI3PXWjF
— neko-nako (@nekonako2) August 12, 2017
中丸美繪『嬉遊曲、鳴りやまず―斎藤秀雄の生涯』(新潮社)
チェロ奏者で指揮者だった #斎藤秀雄 氏は、小澤征爾や秋山和慶、堤剛、藤原真理ら多くの逸材を育てた。鬼教師と言われた斎藤氏の音楽を継承させようとする情熱と教え子たちの師への反抗と敬慕を綴った評伝。小澤征爾氏の原点でもある。 pic.twitter.com/LptI6maFTA— neko-nako (@nekonako2) August 12, 2017
弟子入り志願の際は母の付き添いを断っていることから、何事も自分で行動する習慣が身に付いていたことがうかがえますね。
師匠の齋藤さんからは厳しく教えられ、逃げ出すことは日常茶飯事だったそうです。
しかし齋藤さんは小澤さんの才能を見抜き、カバン持ちをさせるなど常に2人で行動していました。
師匠が「ずっと手元に置いておきたい」と考えたほどですから、ポテンシャルがある青年だったのでしょう。
小澤さんは大学についても、齋藤さんが教授を務める桐朋学園短期大学に進学。
師匠から継続的に、音楽理論と指揮の実践まで叩き込まれました。
彼はこのとき受けた指導によって、指揮の実践的なスキルを身に付けたのです。
やがてフランス留学を希望した小澤さんですが、齋藤さんはまだ彼を手元に置いておきたかったため反対。
しかし小澤さんは持ち前の行動力で師匠を納得させ、留学を実現するのです。
具体的に取った行動は、まず船会社に相談を持ち掛け、安い金額で貨物船に乗る許可を得ることでした。
続いて富士重工に交渉し、フランス国内での移動用にスクーターを譲り受けます。
スクーターに乗る際は、「日の丸国旗を付けて、ギターを背負う」という条件が付いていました。
スポンサー側としては日本企業の宣伝をしてもらうため、個性的な条件を提示したのかもしれませんね。
こうして音楽家志望の無名の若者が、複数の有力企業にスポンサーとして協力してもらったのです。
小澤さんには並外れた行動力と交渉術が備わっていたといえますね。
スポンサーに用意してもらったスクーターを持って貨物船に乗ったのは、23歳のとき。
ついに齋藤さんは、フランスへ旅立つかわいい弟子を見送りました。
小澤さんは留学先でも、持ち前の行動力を発揮しています。
彼はアメリカ大使館で「ブザンソン国際指揮者コンクール」のポスターを、たまたま目にしました。
応募締め切りは過ぎていたものの、何と小澤さんは大使館員に直訴。
「どうしてもコンクールに出たい」と担当者に伝え、主催者と交渉の末、出演許可を得るのです。
本当に高い行動力と交渉術の持ち主ですね。
指揮者の登竜門である「ブザンソン指揮者コンクール」。
交渉の末に出場を果たした小澤さんは、齋藤さんから教わったノウハウを活かし、実力を発揮。
見事優勝し、世界的指揮者への大きな一歩を踏み出しました。
小澤さんのすごさとは、驚くべき行動力と巧みな交渉術を武器に、自ら幸運をつかんでいったことなのです。
小澤征爾は天才的な人たらし
「世界のオザワ」と呼ばれる世界的な指揮者の小澤さんですが、音楽家として「天才」とは言い難いようですね。
彼は先述の通り「ブザンソン指揮者コンクール」で優勝し、指揮者として華々しくデビューしました。
その後は「カラヤン指揮者コンクール」でも優勝し、半年間カラヤンの弟子として指揮を教わっています。
「若い連中はカラヤンに夢中でマネしたがるんだ。僕もそうだった。だが運よく僕は弟子になり先生を間近に見られた。マネるのは愚の骨頂だとね。」by 小澤征爾 pic.twitter.com/fK1v0VaUaq
— 亝藤基寛 (@saitohmotohiro) August 18, 2015
小澤さんの指揮に磨きをかけたのは、齋藤さん、カラヤン、シャルル・ミュンシュ、バーンスタインという一流音楽家たちです。
偉大な4人の師匠によって、世界的指揮者にふさわしい実力を付けていきました。
つまり元々天才的な指揮者だったわけではなく、師匠あってこその「世界のオザワ」だったといえます。
もちろん偉大な師匠たちから教われたのは、ポテンシャルがあったからこそです。
ただ小澤さんのポテンシャルは、モーツァルトのように神童めいた才能とは異なります。
先述の通り、師匠やスポンサーを獲得するためには、並々ならぬ行動力と交渉術を発揮してきました。
つまり誰かを魅了して味方にする、人たらしの才能があったのでしょう。
晴れて師匠を獲得してからは、必死に教えを習得し、徐々にスキルを磨いていったのです。
良い意味で天才的な人たらしだったからこそ、小澤さんは早期に指揮者として大成できたといえるでしょう。
指揮棒を使わないスタイルで演奏
小澤さんは長年、指揮棒を使わない独自のスタイルを貫いてきました。
指揮棒は指揮者を象徴する道具ですが、使わないことによるメリットもあります。
5本の指を使って指揮する方が、より曲の表情を伝えられるのです。
わずかな指先の動きで、繊細な感情まで表現できるためです。
小澤さんも指揮棒を使わないことで、より親しみやすく、豊かな表現ができている点は特徴的ですね。
理想のスタイルを考え抜いた結果、指揮棒を手放したのかと思いましたが、そうではありませんでした。
あるウィーンでのコンサートの直前、指揮棒をアパートの部屋に置いて来てしまったそうです。
部屋に戻る余裕はなかったため、指揮棒なしで本番に臨んだところ、楽団員は何も言いませんでした。
つまり自分の指揮を「誰も見ていなかった」そうです。
わざわざ指揮棒を持って来なくても大丈夫だと気付いた小澤さん。
以来、指揮棒にわずらわされず、自由に指を使った指揮を楽しんできたようですね。
ユニークな指揮と魅力的な人柄こそ、小澤さんの人気の秘密といえるでしょう。
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