吉村禎章の天才ぶりと成績。栄村忠広と激突で怪我、復帰後に残した名言

吉村 禎章(よしむら さだあき)さんは早くから将来を期待された天才バッターでした。

期待に応えて見事な成績を残しましたが、怪我をしたことで長期の離脱をしています。

今回は吉村さんの成績や激突の大怪我、復帰後に残した名言などを見ていきましょう。

吉村禎章のプロフィール

本名:吉村 禎章 (よしむら さだあき)

身長:180cm

出身地:奈良県御所市

生年月日:1963年4月27日

投球・打席:左投左打

ポジション:外野手

所属球団(選手歴):読売ジャイアンツ (1982~98)

所属球団(指導歴):読売ジャイアンツ (2002~3、6~11、18~)

天才と呼ばれた吉村禎章の成績

まずは吉村禎章さんの天才ぶりを成績から読み取っていきましょう。

吉村さんは高校野球の名門校だった大阪府の「PL学園」で春のセンバツ(1981)の優勝に大きく貢献する活躍を残し、同年11月のドラフト会議でジャイアンツから3位指名されて入団。

入団1年目は4試合に出場して3打数ノーヒットに終わりましたが、2年目となる1983年は84試合に出場して打率.326(95打数 31安打)という驚くべき成績を残しています。


1984年には115試合に出場して打率.342(260打数 89安打)を叩き出し、規定打席未満ではありましたが首位打者を獲った篠塚利夫さんの打率.334を上回っていました。

翌年以降も100試合以上に出場するなど高校ドラフト出身でありながら早くも主軸に定着。

※1985年 120試合(打率.328 / 本塁打16 / 打点56)

※1986年 128試合(打率.312 / 本塁打23 / 打点72)

※1987年 127試合(打率.322 / 本塁打30 / 打点86)

また、1988年3月18日に開業した東京ドームのこけら落としのオープン戦(対阪神タイガース)に出場し、そこで”東京ドーム初ホームラン”を放って賞金の100万円を手にしています。

この活躍によって1988年も素晴らしいシーズンになるかと思いきや、7月6日に札幌市円山球場で開催された対中日ドラゴンズ戦で左膝に大怪我を負うことになりました。

普通であれば軸足である左脚がダメになったことで選手生命が終わるところですが、右脚を軸にして回転させて打つバッティングを会得して復活したのは天才の証でもあります。

復帰後の10年間で49本塁打を残し、代打の切り札や重要な試合への出場などで存在感を発揮。

関係者の中には原辰徳さんよりも吉村さんをジャイアンツの4番に推す声もあったほどで、ファンだけでなくOBや識者などからも高く評価されていたことが伺えました。

吉村さんの天才的なセンスや残した成績は見事なものですが、生まれ持った才能に慢心せずに練習やリハビリを続けた「努力の天才」ということもできるでしょう。

※17年間の通算成績 1349試合(打率.296 / 安打964 / 本塁打149 / 打点535 / 盗塁40)

吉村禎章と栄村忠広の激突や怪我について

次は吉村禎章さんの可能性を奪ってしまった大怪我について見ています。

悲劇の舞台となったのは1988年7月6日に札幌市円山球場で開催された対中日ドラゴンズ戦で、年に一度の北海道開催は夢のようなひと時から恐ろしい悪夢へと変わりました。

ジャイアンツが9対1とリードして迎えた8回表、中尾孝義選手の打球が左中間の深くに飛び、レフトの吉村さんとセンターの栄村忠広選手が激突してしまったのです。

実は7回の裏に吉村さんに打席が回っていれば守備を交代する予定だったと言われているので、自分のひとつ前でイニングが変わったことが不運の始まりだったと言えるでしょう。

また、捕球体制に入ってる吉村さんに栄村選手が突っ込んで行く形になっていますが、これは代走や守備固めでしか出場できないという一種の焦りがあったのかもしれません。


この事故で吉村さんは4本ある左膝靭帯の3本を断裂をしてしまい、さらに神経まで痛めていたことから主治医が「交通事故レベル」と表現するほどの大怪我でした。

前年に肩の内視鏡手術を担当した縁があるジョーブ博士が左膝の手術を執刀しましたが、スポーツ医学の権威も思わず「野球選手でこんな怪我は見たことがない」と驚いたそうです。

2度の手術と約1年のリハビリを経て復帰をしたものの、怪我をする前の様な力強いバッティングや守備は鳴りを潜め、レギュラーではなく主に代打として10年間ほどプレーをしました。

仮に吉村さんが怪我をしなかったら実際の数字よりも遥かに凄い成績を残していたはずですし、もしかすると打撃部門のタイトルを1つ2つ獲っていた可能性も大いにあるでしょう。

しかしながら、怪我も含めて吉村さんの野球人生なので「たられば」はやめておきます。

復帰後に残した名言や栄村忠広への想い

最後に吉村禎章さんが怪我から復帰後に残した名言について見ておきましょう。

事故当時の吉村さんはプロ野球選手として上り坂の途中であり、アクシデントもぶつかって来た栄村忠広選手に落ち度があったので恨み言が出ても不思議ではありません。

実際、スター選手の未来を奪うことになった栄村選手は猛烈なバッシングを受けていたらしく、事故後の1990年オフにオリックスへ無償トレードされて翌年に現役を引退しています。

しかし、当の吉村さんは栄村選手がファンから叩かれていることを非常に心配しており、取材の中でも恨んでいないことを何度も口にするなど気遣う様子が見て取れました。

「栄村さんには何の恨みもないですよ。僕はあの怪我をして良かったと思っているぐらい」

「怪我が無ければ一流選手になっていたかもしれない。しかし、一流の人間にはなれなかった」

怪我をするまで順調に人生を歩んでいましたが、怪我によって周囲の人への感謝や思いやり、無理と言われた復帰に向けて努力を続ける精神力を鍛えられたのでしょう。


野球選手として怪我は大きなマイナスとなったものの、苦難を乗り越えたことで「吉村禎章」という人間は一流となり、野球人としても大成することが出来たと言えます。

振り返ってみれば「災い転じて福となす」と言える出来事だったのかもしれませんね。

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