宇梶静江の夫と息子・宇梶剛士。アイヌ復権運動、ロシアとのつながり。刺繍で古布絵

詩人でアイヌ文化の伝承者、そしてアイヌ復権運動の先駆者でもある宇梶静江(うかじしずえ)さん。

息子が俳優の宇梶剛士さんであることは広く知られていますが、夫はどんな方だったのでしょうか。

解放運動をはじめたきっかけやロシアとの関係、またアイヌの伝統的な刺繍を用いた古布絵(こふえ)作家としての活動を追っていきます。

宇梶静江の夫は本土出身の建築士

半世紀にわたり、先住民族アイヌの権利回復のために奔走してきた宇梶静江さん。

ご本人も北海道出身のアイヌ民族です。


生まれは和人(本土出身の日本人、大和民族)も暮らす北海道浦河郡のアイヌ集落。

札幌の北斗学園中等科卒業後はアイヌということがネックになり、同地での就職はかないませんでした。

23歳で上京したあとは働きながら定時制高校に通う日々。

この頃の静江さんはアイヌを否定し、アイヌであることを封印していたといいます。

北海道の少女時代、アイヌ女性と和人青年の悲恋をよく耳にしたこともあり、「だれとも恋はしない」と決めていたという静江さん。

和人の男性はもとより、差別されることがわかりきっているアイヌ男性との結婚にも希望はもてませんでした。

夢にあふれた東京での生活でしたが、もともと丈夫ではない体に無理がたたったのか、やがて体調を崩しがちに。

静江さんは、25歳の時にアルバイト先の喫茶店の客だった男性と交際をはじめ、妊娠をきっかけに27歳で結婚します。

結婚はしないと決意していたはずなのに結婚を決めたのは、頼る人もいない暮らしの中で気持ちが弱っていたせいかもしれないと振り返っています。

夫・宇梶順計さんは東京生まれの和人で建築士。


義理の母も穏やかで優しい女性で、恋というよりも、この人たちなら自分や家族が差別されることはないだろうと思ったことが大きかったそうです。

加えて故郷の母に手紙で結婚をせかされていたこともあり、なかば追いつめられるように決めた結婚でした。

結婚後は2人の子宝に恵まれ、しばらくは平穏な日々。

しかし文学や芸術を愛し、家事・育児・仕事の合間をぬって高校に通い続ける静江さんと、男としての面子にこだわる仕事人間の順計さんとの間に、いつしか溝が生まれます。

心の中で「何かが違う」という違和感が首をもたげ、夫や和人社会との価値観の違いに疲れた末に、静江さんは長い間封印してきた「アイヌ民族としての自分」と向き合うことに。

故郷から遠く離れ、首都圏に在住するアイヌたちが支えあう場がほしいと考えた静江さんは、その思いを『朝日新聞』に投稿したのです。

これが『ウタリたちよ、手をつなごう』でした。

「ウタリ」とは、アイヌ語で「同胞」「仲間」という意味だそうです。

夫の順計さんは1997年にこの世を去りました。

息子・宇梶剛士は母とアイヌに反発したことも

1962年8月15日に誕生した宇梶剛士さんは静江さんの長男です。

長女は2歳年上の姉・良子さん。

剛士さんの出産時の体重は約5000グラムあり、父と母の親戚は「おたくの家の血筋だね」と押しつけあっていたそうです。

生まれ育ちは東京ながら、アイヌ民族の血が流れる芸能人としてはいちばん有名な方でしょう。

建設業に携わっていた父は地方への出張が多く、家に帰るのは月に一度か二度。

母の静江さんも人権運動家として各地を飛び回っていたために、剛士さんは特殊な家庭環境で育ちました。

自宅には静江さんを頼ってきた人がよく居候しており、母を通して幼い頃からアイヌ文化に触れていたといいます。

例えば、夕食はアイヌの伝統食。

友だちの家のようなカレーライスやハンバーグではなく、鮭や野菜を煮込んだオハウと呼ばれる汁物が定番でした。

活動に奔走する母や、身のまわりのアイヌ文化に反発したこともあったと明かす剛士さん。

けれども若い頃の自分を鍛えてくれた母の弟・浦川治造さんや他のアイヌの人たちと接するうちに、自身のルーツについて関心が強まっていったそうです。

2020年には、北海道にあるアイヌ民族博物館「ウポポイ」の宣伝大使に就任し、民族衣装をまとってプロモーション映像に進行役で出演しました。

宇梶静江とアイヌ復権運動

民族の名前である「アイヌ」とは、アイヌ語で「人間」を意味する言葉です。

故郷の北海道浦河郡で、宇梶静江さんはアイヌというだけで差別にあい、つらい少女時代を送りました。

アイヌはもともと狩猟民族で、自然の恩恵とともに生活していました。

それが明治政府の同化政策によって仕事もアイヌ語も奪われ、いわれなき差別にさらされるようになります。

静江さんはいじめと貧しさから学校へ通うこともできず、20歳で札幌の中学に入学しています。

1972年2月8日の『朝日新聞』に掲載された『ウタリたちよ、手をつなごう』は大きな共感を呼びますが、そのほとんどが和人からのもの。

同胞のアイヌの反応は冷ややかで、アイヌであることを隠して暮らしているのに、寝た子を起こすような真似をするなとお𠮟りを受けたこともありました。

静江さんはあきらめず、「東京ウタリ会」を設立。

さらに職業安定所にアイヌのための相談員を置くことを東京都に認めてもらい、自らが相談員になるなど、果敢に動き続けます。

アイヌでありながらアイヌを封印してきた静江さんですが、長い長い葛藤の末にアイヌへ戻ってきたことになりますね。

宇梶静江とロシアのつながりは?

アイヌは日本国内だけでなく、ロシアにも居住しており、言語は日本語とアイヌ語のほかロシア語も使われています。

宇梶静江さんにはロシアの血が流れているといわれていますが、それは顔立ちの印象からもなんとなく感じますね。

調べたところ、父の浦川春松さんは石川県出身の和人である多聞常次郎さんと、ハルコンジさんというアイヌ女性の間に生まれた和人とアイヌのハーフ。


春松さんはシミツさんというアイヌ女性を妻にしています。

ところが「宇梶静江は浦川春松とミヤの四男二女の三番目」とするプロフィールもあり、シミツさんとミヤさんが同一人物なのか、また先祖にロシアの血を引いた方がいたのか、そのあたりの詳細がはっきりしません。

幼少期がつづられた著書『大地よ!』に、何か手がかりがあるかもしれません。

宇梶静江がアイヌ刺繍で描く古布絵

解放運動を行うかたわら、よりアイヌのアイデンティティを突き詰めるために、63歳でアイヌ刺繍の技法を習得した宇梶静江さん。

伝統的な刺繍を古布絵として表現するオリジナルなアートも編み出しました。

布絵とは、布を切って縫いつけて絵にしたものなのだそう。

古い布に刺繍を施したものが静江さんの古布絵です。

刺繍で布に描くのは、アイヌに伝わる叙事詩「ユーカラ」のさまざまな場面。

2011年には古布絵作家として吉川英治文化賞を受賞しました。


静江さんの作品は詩情豊かなアイヌのアートとして、国内外で高く評価されています。

アイヌの誇りを胸に、コロナ禍の今もなお精力的な活動を続ける宇梶静江さん。

アイヌの暮らしぶりを実体験として知る、おそらく最後の世代ではないでしょうか。

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