日本全国の地形を測量し、「大日本沿海輿地全図」を完成させた伊能忠敬(いのう ただたか)。
弟子の間宮林蔵が忍者だったという噂がありますが、本当だったのでしょうか。
また有名な徳川家の忍者である服部半蔵との意外な関係も確認。
併せて忠敬の謎が多い死因に迫ります。
伊能忠敬のプロフィール
本名:神保三治郎
生年月日:1745年2月11日(延享2年1月11日)
死没:1818年5月17日(文化15年4月13日)
身長:160cm前後
出身地:上総国山辺郡小関村(現在の千葉県山武郡九十九里町小関)
伊能忠敬の弟子は間宮林蔵
まずは忠敬の弟子である間宮林蔵について見ていきましょう。
間宮は農民出身の探検家であり、樺太が島であると確認し、「間宮海峡」の発見者として名前を残しています。
忠敬の九州測量に立ち会ったという記録があるため、彼の弟子だったと言われてきました。
近年では、忠敬が作った地図の北海道のデータは、間宮が測量した結果に基づいてまとめられたことが明らかになっています。
伊能忠敬の大日本沿海輿地全図は何度見ても驚かされます。
(北海道の測量は間宮林蔵) pic.twitter.com/USF86lHflQ— ふぇー@道・ROAD・道路 (@festiva1202) September 12, 2021
定説では北海道の北岸部分を間宮、南岸部分を忠敬が測量していたとされてきました。
しかし実際は、忠敬が測量した南岸を間宮が再測量。
北岸だけでなく南岸も、間宮が残したデータが最終本に残されたことになります。
旅行するときにはその土地の歴史を見ておくと楽しさが倍増すると思うんよ
例えばこの写真。日本最北端の宗谷岬にある間宮林蔵像。
間宮は江戸時代に伊能忠敬の代わりに北方海域を調査したことで日本地図の完成に寄与したとされる。そんな彼が最北端の碑を見つめているのはロマンに溢れていると思います pic.twitter.com/ti6YmVhbOe— ベレベレ (@be_re3) June 22, 2018
測量隊のリーダーである忠敬の測量地を、再び測量できるほどのスキルがあるのは、間宮だけだったとのこと。
忠敬は北海道の測量結果に自信がなかったため、愛弟子の間宮に再測量を任せた可能性が高いのです。
間宮が忠敬に弟子入りした時期は定かではありません。
ただ可能性が高いのは、すでに樺太探検で名声を得た後だったようです。
忠敬も有能な間宮の入門を当然認め、自宅に何度も招き、測量指南をしていたとされています。
師匠と弟子は度々、伊能宅で親密に語り合っていたのです。
伊能忠敬と間宮林蔵の忍者説
忠敬と間宮には、忍者だったという説があります。
伊能忠敬展行ってきた 地図がめっちゃ綺麗やった
忠敬って忍者説あるけど どうなんやろ pic.twitter.com/1ElgIaz8AW— Ogi (@Ogi17450780) July 10, 2021
確かに伊能宅で2人だけで語り合っていたということは、極秘に重大任務に関する打ち合わせをしていた可能性はありますね。
忍者といっても、多くの現代人がイメージするように、現実離れした術や高い戦闘能力がある人々のことではありません。
当時の忍者は徳川家の「隠密」と呼ばれ、怪しい動きをする藩や外国の動きを探るのが仕事でした。
忠敬も間宮も、全国各地を「測量」と称して渡り歩いています。
測量の傍ら、各地に怪しい動きがないかチェックしていた可能性は十分あるのです。
いかにも測量隊らしい扮装をして、実は敵の動きを探っていたのかもしれません。
もちろん忠敬と間宮は、測量家・探検家としてもしっかり実績を残しました。
そのため測量家・探検家のフリをしていたわけではないでしょう。
ただ測量とは別に、隠密としての任務も併行していた可能性はあるのです。
ややハードスケジュールとは思いますが、2人は重大任務をこなせるハイスペック人材だったのでしょう。
伊能忠敬のほか松尾芭蕉にも忍者説。服部半蔵と同一人物?
忠敬や間宮のほかにも、『奥の細道』で知られる俳人・松尾芭蕉にも忍者だったという説があるそうです。
全国各地を行脚していた人物には、必ず忍者説が付きまとうようですね。
芭蕉には、実は徳川家の忍者・服部半蔵と同一人物だったという説まで流れています。
ただ年齢的に辻褄が合わないため、「芭蕉半蔵説」は単なる都市伝説に過ぎません。
忠敬の名前もネット上では半蔵の名前と結び付いて表示されますが、両者には200歳以上の年齢差があります。
忠敬と半蔵には何の関係もありませんね。
忍者説が浮上する人物には、必ず忍者の代表格である「服部半蔵」という名前が結び付いてしまうのでしょう。
伊能忠敬の死因は急性肺炎の可能性あり
忠敬は「大日本沿海輿地全図」を完成させ、日本列島の形を明らかにした功績で知られています。
しかし実は完成を目前に、73歳で亡くなっていました。
地図は残された弟子たちが協力し合い、忠敬の死後に完成させたのです。
忠敬の死因は不明ですが、当時の73歳はかなりの高齢でした。
老衰に近い亡くなり方だったのではないでしょうか。
もっとも可能性が高いとされる死因は、慢性気管支炎の悪化によって起こった急性肺炎です。
大日本沿海輿地全図。。
江戸湾の一番奥まったところに船橋が位置していることがよくわかる。。文化15年4月13日、現行暦換算で1818年5月17日は
伊能忠敬が慢性気管支炎から肺炎をきたして死んだ日(享年73)。。 #伊能忠敬没後200年 pic.twitter.com/vIA1Imfy17— 【 group方 】真田紐幸【 topos方 】 (@EsemShibaristJr) May 17, 2018
若い頃から身体が弱かった忠敬は、病気でよく寝込んでいたそうです。
四国を測量した時期から慢性気管支炎を患い、冬が来る度に痰や咳に苦しんでいました。
卵を使った食事や卵湯の療法を続け、鶏肉も食べながら栄養を付けていたそうです。
度々全国各地を巡り、症状が悪化した可能性も高いですね。
江戸から蝦夷地、九州など、第十次までの測量を終え、ついに力尽きたのでしょう。
地図の完成を見ることなく亡くなった忠敬。
日本地図を目にするときは、忠敬と彼の志を継いだ弟子たちの情熱に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。
伊能忠敬の家系図。子孫はキャディー&カフェ経営者。生家と旧宅について
伊能忠敬がすごい。地図精度の高さ、使用道具とは。測量エピソードとルート
コメント