西本聖の現在(2023)。嫁のガス爆発事故も離婚せず。家族に野球選手と力士、引退試合に長嶋茂雄

西本 聖(にしもと たかし)さんは切れ味鋭いシュートを武器に活躍をしました。

引退後はコーチを歴任していましたが、現在(2023)は何をしているのか気になります。

今回は西本さんの現在や離婚の噂、家族のアスリートなどを見ていきましょう。

西本聖のプロフィール

本名:西本 聖 (にしもと たかし)

身長:176cm

出身地:愛媛県松山市

生年月日:1956年6月27日

所属球団:読売ジャイアンツ (1975~88・1994) / 中日ドラゴンズ (1989~92) / オリックス・ブルーウェーブ (1993)

現在の西本聖は野球解説者として活動中

まずは西本聖さんの2023年現在についてチェックしていきます。

引退後は阪神タイガースや千葉ロッテマリーンズ、古巣のオリックス・バファローズなどのコーチを歴任し、2016年からは日刊スポーツや文化放送の野球解説者として活動。

現役時代の活躍だけでなく指導者としての経験などから導かれる解説は非常に適切で、厳しい物言いや人情味あふれる語り口は多くのファンから支持をされているそうです。

西本さんは国内だけでなく韓国プロ野球「ハンファ・イーグルス」で指導した経歴があり、同じ野球でも違う文化の中で教える難しさを体験した貴重な経験も持っていました。

他の名選手に比べて見掛ける頻度が少ないのは新聞やラジオが中心なので仕方がないですが、最近はOBの間でもYoutubeが流行っているので出演機会が増えるかもしれませんね。

嫁がガス爆発に巻き込まれる事故、その後も離婚せず

次は西本聖さんが嫁と離婚をしたという噂について見ていきましょう。

西本さんの嫁は由里子さんという女性で、1981年3月15日に川崎市内の自宅で湯を沸かすためプロパンガスに点火した際に爆発して”全身の65%”をやけどするという重症を負いました。

当時の西本さんは読売ジャイアンツの一員としてフロリダのキャンプに参加していましたが、由里子さんが爆発に巻き込まれたという知らせを聞いて急遽帰国をしています。

この爆発事故は新婚1年目に起こったことから「終わったな」と西本さんは思ったものの、懸命な治療や由里子さんの頑張りもあって無事に退院をすることができました。

西本さんは「自分が妻にできるのは勝つこと」という思いから由里子さんの焼け落ちた皮膚を尻のポケットに入れて登板し、事故直後のシーズン(1981年)で18勝を記録。

2006年4月に発売された「妻への遺言」(著:根本直樹さん)の中で西本さんは”俺たち夫婦は永久欠番。再婚だけはしないでほしい”という素晴らしい言葉を贈っています。

なぜ西本さん夫妻に対して離婚という噂が出たのかは分かりませんが、少なくとも公表されている範囲の情報で離婚をしたという事実を確認できませんでした。

ガス爆発は不幸な事故でしたが、新婚夫婦の絆を深めた出来事だったとも言えるでしょう。

西本聖の家族には野球選手と力士がいた

ここでは西本聖さんの家族(兄弟)にアスリートがいた件を見ていきます。

西本家は5男2女の7人の子を持つ大家族で、聖さんは男子の中で末っ子でした。

地元の松山では「西本五兄弟」と言われるほど有名なスポーツ家族だったらしく、三男の明和(あきかず)さんは松山商業高校のエースとして1966年夏の甲子園で準優勝をしています。

明和さんは1966年11月のドラフトで広島カープから1位指名されて入団し、1969年の開幕第3戦に先発登板をして中日ドラゴンズの星野仙一さんと投げ合って初完投勝利を飾りました。

その後は野手に転向して1軍出場を果たしましたが、怪我や肝臓病によって1973年オフに引退。

1976年には3年もの闘病を終えて広島カープの入団試験に合格し、夢だった1軍復帰は叶いませんでしたが明和さんの類まれなる精神力はファンや関係者を驚かせました。

また、四男の正夫さんは兄と同じ松山商業高校に進んで1969年夏の甲子園大会に一塁手として出場し、優勝に大きく貢献した後も中央大学と日本生命で野球を続けたそうです。


二男の忠雄さんは相撲界に進んで「玉松山(たままつやま)」という四股名で活躍し、三段目36にまで出世をして1963年9月場所をもって現役を引退していました。

分かっているだけでも5人のうち4人がスポーツ界で活躍しているので、地元で言われていた「西本五兄弟」という異名は十分に保たれたと言えるでしょう。

西本聖の引退試合にミスターが飛び入り参加

最後に西本聖さんの引退試合に起こったサプライズについて見ておきましょう。

西本さんは1974年にドラフト外で長嶋茂雄さんが率いる読売ジャイアンツに入団しており、憧れだけでなく目をかけてもらったことに相当な恩義を感じていたそうです。

1988年オフにトレードで中日ドラゴンズへ、1992年オフには戦力外でオリックス・ブルーウェーブへ移籍していますが、1994年3月に入団テストを受けて読売ジャイアンツへ復帰。

西本さんは「勝って監督と握手がしたい」という思いを強く持っていましたが、投手コーチの堀内恒夫さんが復帰や起用に猛反発したことで1軍登板は叶いませんでした。

また、通常はシーズン終盤に引退登板(試合)が行われるのですが、最終戦まで中日ドラゴンズと優勝争い(10.8)を繰り広げたこともあって引退試合すら行われていません。

不憫に思った関係者はシーズンオフの1995年1月21日に多摩川グラウンドで引退試合を開催し、西本さんは同僚だった桑田真澄さんらと一緒に定岡正二さんの「サダーズ」と対戦。

有名選手が多く参加した試合は見ごたえ十分でしたが、なんと最終回に「代打・長嶋」がコールされたことで”西本 vs 長嶋”という勝負が実現しました。

長嶋さんは初球をフルスイングしてサードへボテボテのゴロになりましたが、現役時代さながらの全力疾走もあって内野安打をいう結果に終わっています。


西本さんが長嶋さんに投じたストレートは100km前後と全盛期の面影は見られなかったものの、自身の野球人生の中で最も印象に残る1球だったのは間違いないでしょう。

入団から引退まで長嶋さんのお世話になったとも言えますが、多くの野球選手の人生に影響を与えている「長嶋茂雄」は日本球界の中でも特別な存在なのです。

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