『アンパンマン』の原作者として知られ、『アンパンマンのマーチ』の作詞も手掛けたやなせたかしさん。
同曲は特攻隊をテーマに描かれたという説があり、やなせさんの弟が特攻隊員だったことが理由として挙げられています。
真相を確認しつつ、やなせさんの家族、出身地・高知県での生い立ちを見ていきましょう。
また若い頃の活動についてまとめます。
やなせたかしのプロフィール
本名:柳瀬嵩
生年月日:1919年2月6日
死没:2013年10月13日
身長:不明
出身地:東京府北豊島郡滝野川町(現在の東京都北区)、高知県高知市
最終学歴:東京高等工芸学校図案科
やなせたかしの弟は千尋
やなせさんの弟は、柳瀬千尋さんという名前でした。
少年時代には2人で山に登り、剣劇ごっこを楽しんでいたといいます。
喧嘩をすることもあったものの、いざというときに助け合える関係だったそうです。
2人は強い信頼ときずなで結ばれた兄弟でした。
しかし別れは突然訪れました。
千尋さんは22歳の若さで戦死してしまったのです。
弟・千尋は特攻隊員ではなかった
太平洋戦争中、10万人以上の日本兵が犠牲となった「バシー海峡」。
台湾とフィリピンの間にある海峡で、やなせさんの弟・千尋さんも生涯を終えました。
やなせさんは長年、弟が特攻隊員だったと思い込んでいました。
千尋さんが搭乗していたのは、人間魚雷「回天」だと考えていたそうです。
しかし実際に乗っていたのは、駆逐艦「呉竹」だったといいます。
「呉竹」の搭乗員の中には、漂流を経て「魔の海峡」から生き残った人もいました。
生存者の証言によって、千尋さんが乗っていた艦隊が判明したのです。
つまり千尋さんは特攻隊員として突撃したわけではありませんでした。
生存者によって真相が判明したのですね。
私はアンパンマンが好きでないのだけど、やなせたかしには弟がいた。やなせは弟が大好きだった。弟は京大に進学し特攻(回天)で戦死した
(実際は特攻ではなかったが、やなせは長年そう思い込んでいた)というエピーソードを踏まえて、アンパンマンのマーチを聴くと震える
#アニソン奇跡の一言 pic.twitter.com/fAH5kMMkmZ
— ポポロ (@qbrbwrte) July 9, 2018
やなせさんによると、千尋さんは「コンパスで描いたみたいな丸顔」だったそうです。
アンパンマンの顔は、もしかすると弟の顔を思い浮かべて描いたのかもしれません。
誰かのために自分の顔を食べさせている、自己犠牲的な生き方のアンパンマン。
日本のために散って行った千尋さんと重なる点はありますね。
アンパンマンのマーチに込められた想い
やなせさんは『アンパンマン』のテーマ曲『アンパンマンのマーチ』を作詞しました。
「歌詞には戦死した弟への想いが込められている」と噂が流れたことがあります。
『アンパンマンのマーチ』の歌詞には、特攻隊員の姿を連想させる描写があるのです。
「何のために生まれて、何をして生きるのか。答えられないなんて、そんなのは嫌だ」
「こぼさないで涙。だから君は飛ぶんだどこまでも」
人生の意味も分からない段階で、若い命を散らした特攻隊員に捧げた歌詞に思えますよね。
数日前、頭のなかで「アンパンマンのマーチ」がヘビーローテイションされてた。
子供向けのアニメの曲とは思えない歌詞。この曲はアンパンマンの原作者「やなせたかし」さんの作詞。戦争のなか特攻で亡くなった弟さんへの想いが込められたものなんです pic.twitter.com/eIhIsRrkGs— べいまっどはったー (@baymadhatter) February 16, 2015
ただやなせさんは、特攻隊員を意識して同曲を作ったわけではありません。
「特攻隊員だった弟のために作った曲である」という噂は、自身が否定しています。
ただ「それほどまで、最後に弟と言葉を交わした記憶が残っていたのでしょう」と語りました。
やなせさんは無意識のうちに、特攻隊員を連想させる歌詞を書いていたのですね。
『アンパンマンのマーチ』は、特攻隊員について歌った曲ではありませんでした。
森のカフェのランチから名古屋市博物館の「やなせたかし展」へ
やなせさんの言葉が優しくも深いのは戦争で弟さんを亡くしたりした経験が故でしょうか…
「やさしいライオン」でやっぱり泣いた。
絶望の隣りに座っているのは希望。
今日のパワーワードでした。 pic.twitter.com/82vxBQh5Ws— ゆっこ (@neige_0820) January 25, 2020
しかしやなせさんはどんな作品を作るときも、胸の奥で弟のことを想い続けていたのでしょう。
やなせたかしの家族、父は病死して伯父に育てられる
やなせさんの父は、東亜同文書院を卒業し、上海の日本郵政、講談社などを経て朝日新聞社に入社したエリートでした。
1923年に朝日新聞社の特派員として、上海へ単身赴任します。
その後は母もやなせさんを連れて上海へ渡り、一時は家族で暮らしたそうです。
さらに今度は父が中国のアモイへ転勤となり、母子は東京に戻りました。
ほとんど家にいなかった父ですが、帰宅するときはいつもお土産を買って来てくれる優しい人だったといいます。
また詩や絵が好きな人だったため、やなせさんも父の影響で読書やお絵描きが好きになりました。
父の存在は、やなせさんの将来に大きな影響をもたらしてくれたのですね。
しかしやなせさんが5歳のとき、父は赴任先のアモイで亡くなります。
その後は母と弟と一緒に、父方の実家がある高知県に転居。
母が再婚したため、その後は開業医だった伯父に育てられました。
伯父もまた芸術に理解があり、やがてやなせさんは絵の道を極めるべく東京高等芸学校図案科(現在の千葉大学総合工学科デザインコース)へ進んだのです。
やなせたかしの出身地は高知県
先述の通り、やなせさんの父は新聞社の特派員で、転勤が多い人でした。
一家は父の赴任先に向かったり、東京へ戻ったり、さらに父の死後はその地元である高知県へ移ったりしました。
やなせさんは転々とした末に辿り着いた高知県高知市で、小学校から高校までを卒業。
その後はデザインを学ぶべく上京しています。
やなせたかしの若い頃の長い下積み時代
やなせさんはデザインを学んだ後、すぐ漫画家・絵本作家となったわけではありません。
長い下積み時代を経て、34歳でようやく漫画家として活動を始めるのです。
アニメ『それいけ!アンパンマン』で人気を確立した頃には、すでに70歳前後。
かなり遅咲きですから、若い頃は仕事を転々としながら絵を描き続けていたのです。
新卒で入社したのは東京田辺製薬の宣伝部でした。
しかし間もなく徴兵され、日中戦争に出征します。
終戦後はクズ拾いの会社で働き、1946年に高知新聞へ入社しました。
『月刊高知』の編集部で文章や漫画を描き始めます。
同僚の上京をきっかけに自身も退職後に上京。
上京した同僚と結婚後は三越の宣伝部にグラフィックデザイナーとして就職しました。
その後はデザイナー業の傍ら、漫画を描き続けるのです。
34歳を迎えた1953年から、ようやく専業漫画家として独立できました。
若い頃から苦労を重ねたものの、決して漫画の道を諦めなかったやなせさん。
若くして亡くなった父や弟の分まで、懸命に生き続けた生涯でした。
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