大手輸送機器メーカー「ホンダ」の創業者である本田宗一郎(ほんだ そういちろう)。
偉大な技術者・実業家として知られていますが、どんな性格だったのでしょうか。
人柄がうかがえる伝説的エピソード、学歴情報、功績をまとめます。
併せて、レジャー施設「鈴鹿サーキット」の警備員にまつわるエピソードを紹介します。
本田宗一郎のプロフィール
本名:本田宗一郎
生年月日:1906年11月17日
死没:1991年8月5日
身長:不明
出身地:静岡県磐田郡光明村(現在の浜松市天竜区)
最終学歴:二俣町立二俣尋常高等小学校(現在の浜松市立二俣小学校)
本田宗一郎は短気な性格だが現場では従順。伝説エピソード
本田宗一郎は社交的な人ではなく、いつも不機嫌そうな表情をしていたそうです。
不満があるとすぐに憤慨する、短気な性格だったといいます。
しかし「正しい」と思う要望に対しては、素直に従い、すぐ行動に移しました。
成功者は、例え不運な事態に見舞われても、 この試練を乗り越えたら必ず成功すると考えている。
そして、最後まで諦めなかった人間が成功しているのである。
本田宗一郎pic.twitter.com/DmkcSIBmrE— 前向きな言葉 (@maemukikotoba1) December 20, 2021
伝説として語り継がれているエピソードがあります。
ある日本田は、制服を着た人しか入れない現場に、ピンクのシャツを着てやって来ました。
その場にいた新入社員は「おじさん、ここには制服着ていないと入れないよ」と注意します。
本田は素直に従い、ロッカールームで制服に着替えました。
新入社員は創業者の本田を認識せず、失礼な発言をしたことになります。
しかし現場のルールを伝える正しい発言だったため、本田は若い社員の指示に従ったのです。
またある工場を視察していた際のこと。
寒さをしのぐため、本田は作業着であるツナギに付いたポケットに、手を突っ込んだまま歩いていたそうです。
すると若い作業員から「おい、おっさん! 現場は命がけなんだ、ポケットに手を突っ込んだままこけたら危ないぞ」と怒られました。
その直後から、ホンダのツナギからポケットがなくなります。
ポケットに手を突っ込んだまま、怪我をする人が出ないよう、作業着を改良したのです。
本田は現場の様子、作業員の発言を参考にして、すぐに取り入れる謙虚な職業人でした。
また勲一等瑞宝章を受賞し、授賞式に出る際、真っ白なツナギで出席しようと考えていたそうです。
理由は「真っ白なツナギが技術者の正装」と考えていたためでした。
結果的に礼服で出席したものの、常に技術者としてのプライドを忘れなかったことがうかがえますね。
本田宗一郎の学歴は中卒
世界的な技術者の本田ですが、決してエリートではありませんでした。
最終学歴は二俣町立二俣尋常高等小学校です。
現在の浜松市立二俣小学校ですが、当時の学校制度では中学校にあたりました。
そのため本田は中卒ということになりますね。
学歴こそなかったものの、丁稚奉公を経て早くから社会人経験を積み、自動車業界のトップへと上り詰めたのです。
人間にとって大事なことは、学歴とかそんなものではない。他人から愛され、協力してもらえるような徳を積むことではないだろうか。そして、そういう人間を育てようとする精神なのではないだろうか。
— 本田宗一郎の名言 (@hondabot001) December 18, 2021
ただ東海精機重工業株式会社(現在の東海精機株式会社)社長になった時期、学問的な壁に出くわします。
エンジンを組み立てる際、どうしても経験ではなく、学問的知識が必要になったのです。
そこで1937年から、浜松高等工業学校(現在の静岡大学工学部)で聴講生として勉強に励んでいます。
3年間は金属工学を研究して、エンジニアに必要な知識を身に付けることに集中しました。
後に本田はエンジンと自転車を組み合わせたバイク「バタバタ」を開発し、二輪車「ドリーム号」を生み出します。
1952年
カブF型
バタバタ
赤い燃料タンクより赤カブ→カブと親しまれます。
創始者 本田宗一郎 氏 pic.twitter.com/AktthwZK9Y— ONEニャンT・ (@iWPvuPZFN1CYhNc) July 9, 2018
その後はロングセラーとなる「ホンダ・スーパーカブ」を開発し、ホンダは世界的な知名度を獲得しました。
新技術を開発し、世界を席巻できたのは、いったん立ち止まって学問に取り組む期間を設けたおかげだったのでしょう。
本田宗一郎の功績、世界トップレベルの企業を創業
本田は妻の買い物が楽になるように、自転車にエンジンを取り付けました。
それがホンダ製品の開発のスタート地点となります。
本田は必ず困っている人を手助けするつもりで製品を開発しました。
妻のために作ったバイクは、やがて「蕎麦屋の出前を片手でできるバイク」となります。
世界的に有名な「ホンダ・スーパーカブ」ですね。
👫1/31は #愛妻感謝の日 👫
「スーパーカブ」の生みの親である本田宗一郎がなぜ「カブ」 を作る事になったのか。そのルーツは、奥様のさちさんが大変な思いをして自転車で遠くまで買出しに行く姿を見て「妻の買い物を助けたい」という想いからでした。皆さんの #奥さんにしてあげたいこと は何ですか? pic.twitter.com/N7LC2JhCxS— Honda 本田技研工業(株) (@HondaJP) January 31, 2019
サイズは小ぶりでも、広い居住空間を利用できる初の乗用軽自動車「N360」も、実用的な車として人々を満足させました。
さらにホンダはバイク、車、ジェット機のいずれでも世界1の称号を獲得しています。
2018年にバイク分野は、2輪の最高峰レースMotoGPで3冠を達成。
車分野では翌年に、4輪の最高峰レースであるF1で優勝を果たします。
ジェット機「ホンダジェット」は2017~2018年に2年連続で販売数世界1位となりました。
何よりも社員の身体を大切に考えていた本田。
下の人々を大切にしたことで、チームのきずなが強まり、高品質な製品の開発につながったのでしょう。
本田の功績は、人を思いやりながら真摯に製品を作り続け、結果的に世界トップの企業を生み出したことなのです。
本田宗一郎と警備員の有名エピソード
最後に、本田がいかに人を大切にしていたかが分かるエピソードを紹介します。
レーシングコースで有名な三重県のレジャー施設「鈴鹿サーキット」警備員のエピソードです。
鈴鹿サーキットにやって来た黒塗りの車の運転手に対して、警備員が通行証の提示を求めました。
すると運転手は「関係者だから通しなさい」と言ったそうです。
しかし警備員は「通行証がないと通れない」と言って、かたくなに通行証の提示を求めました。
運転手は苛立ち「関係者だからすぐ通せ」と憤慨します。
それでも運転手は「関係者であっても通行証がなければ通せない」と主張しました。
そのとき後部座席から「通行証を持って来なかったのは、私たちのミスだから、引き返しましょう」という声がしました。
こうして黒塗りの車は引き返し、後日、警備会社に本田から手紙が届きます。
「あなたのようにきちんとした方が、警備してくださることを心強く思います」と書かれていたそうです。
警備会社側は驚きますが、褒められているのですから、本田を追い返してしまった警備員を罰するわけにもいきませんでした。
その後再び黒塗りの車がやって来て、運転手は警備員に通行証を見せました。
車がエリアに入って行く際、後部座席のドアの窓から本田が顔を出し、警備員に会釈したそうです。
謙虚な姿勢を忘れず、地位が下の人々への敬意を忘れなかった姿は、経営者の鏡に他なりませんね。
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