中村哲の息子。長男の職業と次男の脳腫瘍。娘と妻、家族構成について

長年にわたり、アフガニスタンで人道支援に取り組んできた医師の中村哲(なかむら てつ)さん。

没後はご本人だけでなく、遺族にも注目が集まっていますね。

まずは長男と彼の職業をみていきます。

長男のほかに、脳腫瘍で早逝した息子がいるという話は本当でしょうか。

また娘は何人いて、妻はどんな方なのか、家族にフォーカスしてお送りします。

中村哲の家族:息子(長男)は健。職業は?

中村哲さんの5人の子供のうち、息子は長男と次男の2人です。

長男は健さんといい、父が他界した2019年当時は36歳でした。

健という名前は、中村さんが中学時代から通っていた教会の藤井健児牧師から1字をもらったもの。


アフガニスタンを活動拠点としていた中村さんですが、年に数回は日本に帰っており、その年の11月も健さんの家族と2世帯で暮らす福岡県大牟田市の自宅に戻って、孫たちとの再会を楽しんでいたそうです。

どうやら健さんは結婚しており、すでに父親になっているようですね。

同年12月11日に営まれた告別式で、親族代表のあいさつを読んだのは健さんでした。

アフガニスタンへ発つたびに、長男の健さんに「母さんをよろしく」「家をたのんだぞ」と言っていたという中村さん。

この言葉に、父の家族への深い愛情を感じていたそうです。

「口先だけでなく行動で示せ」という教えを守り、学んだことは行動で示していきたいと今後の決意も述べていました。

健さんがどんな職業についているのかは不明ですが、どのような仕事であれ、父の背中を見て学んだ生き方をお手本に、自身の道を邁進することでしょう。

家族:次男は脳腫瘍で早逝

中村哲さんは、2002年12月27日に10歳の次男を脳腫瘍で失いました。

前年に診断を受けて治療を続けていましたが、2002年に入ってから病状は急激に悪化。

脳神経の専門医である中村さんは息子の死期を悟り、急遽帰国しました。

次男は父親の顔を見て、「お帰りなさい!」と目を輝かせたといいます。

息子を看取った翌朝、放心して庭をながめていると、冬枯れの樹々の中、青葉をつけた1本の若い木に目がとまります。

次男が生まれた頃、野鳥が落とした種が芽を出したと思われる、常緑樹でした。

「おまえと同い年だな」とよく言っていたのを思い出したとたんに涙がせきを切り、それと同時に、飢えと渇きで死んでいくアフガンの子供たちの姿もよみがえってきたそうです。

中村さんは、陽光を浴びて輝く若木に向かって、「見とれよ、おまえの弔い合戦は命がけでやってやる」と決意。

わが子の死に接して初めて、「戦火や飢餓で子を失う親の気持ちが実感できた」とも述べています。

世の中の不平等・不条理に一矢報いてやろうという、中村さんなりの宣戦布告でした。

家族:娘(長女)・秋子は志を継いで活動

中村哲さんが凶弾に倒れた2019年当時、第1子で長女の秋子さんは39歳、三女・幸さんは27歳でした。

次女は名前・年齢ともに不明です。

幸さんは事件の一報に触れた直後、「覚悟はしていたが、これまでの活動で銃撃されたのは初めて」とコメント。

秋子さんは母・尚子さんやペシャワール会関係者とともに現地へ飛び、首都カブールの病院で父の遺体と対面しました。

尚子さんは夫の顔をじっと見つめたあと、「がんばったね」とねぎらいの声をかけ、秋子さんは「お疲れさまでした」と一礼。

1年の3分の2は海外にいる中村さんにとって、大牟田市の自宅で家族と過ごす時間はとても貴重でした。

「帰国時に車で駅まで迎えに行くのは私の役目でした」と懐かしむ秋子さん。

父が亡くなったあと、家族代表としてセレモニーに出席したり、家族とペシャワール会のパイプ役として事務局に顔を出したりしているうちに、会の活動も手伝うようになりました。

中村哲さんは照れ屋なところがあり、生前は「恥ずかしいから来んでいいけん」と家族に言っていたとのこと。

秋子さん自身も、家族がいたらやりにくいだろうと気を遣い、力になりたいと思いつつも関わることはなかったそうです。

秋子さんは医療事務の仕事をしているため、事務局に顔を出す日は月に数えるほど。

ペシャワール会の活動に関わるようになって再確認したのは、いつでも、どこでも裏表がなく、一貫した父の姿でした。

娘の秋子さんがスタッフに加わることで、ペシャワール会の活動がより広く知られるようになるかもしれませんね。

中村哲の家族:妻・尚子は元看護師

悲報を受けて、「今日のような日がこないことだけを祈っていました」と絞り出すように語った妻の尚子さん。

結婚したのは、1984年にパキスタンのペシャワールに赴任する前のことです。

当時、中村さんは国内の病院に勤務する医師で、尚子さんは看護師でした。

2人が出会ったのは大牟田市の労災病院という情報がありますが、中村さんは同病院で働いていた時期があり、「家内の実家は大牟田」と発言していることもあって、信憑性が高そうですね。

ペシャワールのミッション病院へは、妻と幼い子供を連れての赴任でした。

西日本新聞に掲載された尚子さんの手記によると、長女の秋子さんが10歳になるまで現地で一緒に暮らしていたことがわかります。

のちに中村哲さんはミッション病院を離れて独自の活動をはじめますが、ミッション病院を出る際に家族は帰国。

5人の子供の育児に多忙な日々を送るなか、夫に家にいてほしいという思いはやはり強かったという尚子さん。

けれど同時に、夫の活動を理解して見守りたいという気持ちもおそらくあったことでしょう。

世界でもっとも危険な国のひとつといわれるアフガニスタンで、宗教の壁を超え、多くの水路を建設し、砂漠を緑に変えた中村哲さん。

自身が否定し続けてきた暴力によって命を落としたことが残念でなりません。


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