昭和を代表するコメディアンの伴淳三郎(ばん じゅんざぶろう)さん。
「バンジュン」の愛称で親しまれ、ドラマや映画では時にシリアスな演技を見せる芸達者でした。
とくに彼のキメ台詞ともいえる「アジャパー」は聞いたことがある人も多いでしょう。
今回は伴さんのアジャパーとは何なのか、由来を確認します。
さらに渥美清さんとの確執、息子、元妻の清川虹子さんについて見ていきましょう。
伴淳三郎のプロフィール
愛称:バンジュン
本名:鈴木寛定(すずき ひろさだ)
生年月日:1908年1月10日
死没:1981年10月26日
身長:165cm
出身地:山形県米沢市
最終学歴:正則学園高等学校
伴淳三郎、アジャパーの由来と流行
伴さんが流行させた「アジャパー」について見ていきましょう。
舞台をメインに活動していた伴さんですが、1948年から映画出演をこなすようになります。
そして51年、斎藤寅次郎監督の『吃七捕物帖・一番手柄』へ用心棒役として出演。
一網打尽の場面で発した、「アジャジャーにしてパーでございます」という台詞が大ウケ。
結果的に「アジャパー」と略され、流行語になったのです。
アジャパー❗️伴淳三郎さん。#ムー一族 懐かしいな。渡辺美佐子さんも。伊東四朗さんも。凄い顔触れ。#ムー一族 pic.twitter.com/etVz90Tgot
— yuminasora (@nagsmafe15894) November 25, 2019
「パー」はクルクルパー、つまり「バカ」という意味。
「アジャジャー」は伴さんの故郷である山形県の方言で「あれまあ」という意味だそうです。
2つの合成語である「アジャパー」は大流行し、2年後には主演映画『アジャパー天国』と『名探偵アジャパー』が製作されました。
こうして時代を代表するコメディアン「バンジュン」が誕生したのです。
誰もが口にしやすい「アジャパー」という響きが、見事に人々の心をつかんだのでしょう。
伴淳三郎と渥美清との確執
昭和を代表するもう1人の喜劇俳優に、渥美清さんがいます。
『男はつらいよ』シリーズの「寅さん」として有名です。
おはようさん。今日は、愛すべき「寅さん(渥美清さん)」の命日です。阪神淡路大震災の後に亡くなられたので、月日も流れました。寅さん。おいらの心の中では永遠に生きてます。今日も田舎の里山の片隅で、ひっそり「寅さんもどき」させてもらってます。ありがとね。感謝です。皆さん。いい一日を。 pic.twitter.com/rEjZoIuDqz
— いなかの寅さん (@DXUaMjzgSOxd5RC) August 3, 2020
彼はプライベートな情報を徹底的に隠していました。
同業である芸能人に対しては、住所や連絡先を知らせていなかったのです。
ただし異なる業種の人については、部屋へ招くことがありました。
評伝『おかしな男 渥美清』を書いた評論家の小林信彦さんは、部屋へ招かれた1人です。
小林さんによると、渥美さんは伴さんを嫌っていたということでした。
事務所が同じため共演が多かった2人。
伴さんは劣等意識が強く、才能ある若手をいじめることがあったそうです。
若手女優だった生田悦子さんと渥美さんに対して、露骨な「いびり」を行ったとのこと。
渥美さんが別の仕事で遅れた時は、「渥美先生、おはようございます」とお辞儀し、皮肉って見せたそうです。
芸達者でありながら、常に周囲を警戒する、神経質な人だったのかもしれません。
結果的に、才能ある後輩をいじめてしまったのでしょう。
いかにも人のよさそうな伴さんの雰囲気からすると、意外なエピソードでしたね。
伴淳三郎の息子は?
伴さんの息子は、スタイリストの山本康一郎さんです。
ようやく坂本龍一さんと直接お話しすることができました。「こんなこと言っていいかわからないんですけど」とわたしが言う度、優しく「いいんです」と言ってくださって、その場でわんわん泣きたい気持ちでした。「スタイリスト私物」の山本康一郎さん、素敵な笑顔!😸わー!いい日! pic.twitter.com/N1hxqcLjPM
— 瑶子 yoko yamanaka (@dwnwakeup) April 2, 2019
昔、オリーブ少女だったころ雑誌で見て都会のカッコイイ大学生だと思っていた山本康一郎さんが伴淳三郎の息子だったとわかってびっくり。朝日新聞東京版の記事より。
— y_kuni (@y_kuni) September 22, 2009
1961年生まれで、雑誌『POPEYE』にフリーのエディターとして参加。
メンズ専門のスタイリストとなり、広告業界で活躍しました。
2016年には広告デザイン業界の権威ある賞、ADC賞を受賞しています。
ブランド「スタイリスト私物」を作り、アーティストと共同でさまざまなアイテムを生み出してきました。
「スタイリスト私物」って山本康一郎さんのブランドだったんだ。インスタ早速フォローした。 pic.twitter.com/z11FxGrUyI
— ani (@ani8823) April 25, 2018
父とはまったく異なる道に進んだのは、実力で勝負したかったためでしょう。
ただ「表現の道」という点では、喜劇役者もスタイリストも、通底するものがあるかもしれませんね。
伴淳三郎の元妻は清川虹子
伴さんの元妻は女優の清川虹子さんでした。
テーブルを囲んで仲良く汁物を召し上がる東映『極道シリーズ』のレギュラー陣。左から山城新伍さん、大木実さん、若山富三郎さん、清川虹子さん、菅原文太さん、潮健児さん。清川さんは強面の男優陣の中にいても、貫禄がありますね。(マガジンハウス『平凡お宝写真館』) pic.twitter.com/JFvkPFo4cF
— 島倉千代菊 (@wataridori333) June 13, 2019
大女優・川上貞奴の弟子だった清川さん。
1942年に東宝社長の弟だった大沢清治と結婚し、一時引退。
5年後に死別すると、『サザエさん』シリーズの磯野フネ役で復帰しました。
伴さんとは戦前から何度も共演し、交流があったためか、交際に発展。
1952年に結婚するものの、彼の女癖の悪さに嫌気がさし、59年には離婚しています。
しかし伴さんが亡くなるまで交流は続きました。
1981年、彼が食道静脈瘤破裂で亡くなった瞬間に立ち会っています。
さらに生前の看病に加え、葬儀の喪主も務めました。
最終的な妻については情報がないため、再婚しなかったのでしょう。
元妻の清川さんは、だらしのない男性を放っておけないタイプの女性だったため、離婚後も彼を気遣っていたのかもしれません。
伴さんは、伴侶とするには女癖があまりに悪かったといえます。
しかし、「面倒を見てあげられるのは自分だけ」という思いもあり、清川さんは最後まで彼に尽くしたのでしょう。
戦後、人々に笑いを届けた名コメディアン伴さん。
しかし後輩をいびり、不倫を重ねるという、多くの欠点がある点でかなり人間臭い人だったのでしょう。
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