水木しげるの画力。弟子も活躍、霊感エピソード&性格は?天才の自画像がすごい

妖怪漫画『ゲゲゲの鬼太郎』の作者である伝説的漫画家の水木しげる(みずき しげる)さん。

緻密な作画が高く評価されてきましたが、今回はその画力のすごさを具体的に見ていきましょう。

また活躍している弟子たちも紹介していきます。

併せて、水木さんの霊感エピソード、性格、天才と呼ばれる理由、見事な自画像について順に見ていきます。

水木しげるのプロフィール

本名:武良茂(むら しげる)

生年月日:1922年3月8日

死没:2015年11月30日

身長:168cm

出身地:大阪府大阪市住吉区、鳥取県境港市入船町

最終学歴:高等小学校(精華美術学院中退)

水木しげるの画力がすごい

水木さんの画力が非常に高いと言われていますが、本当なのでしょうか。

水木作品のキャラクターと言えば、鬼太郎やねずみ男など、親しみやすい妖怪たちを連想する人は多いはずです。

鬼太郎たちを模写している人も多いことから、妖怪を描くのに高度なスキルが必要なわけではないようですね。


しかし水木さんは妖怪だけでなく、非常に緻密な背景画を描くスキルを持っていました。

「水木先生が描いた背景は、アシスタントが描く背景より緻密」と噂されています。

水木さんによる、疫病を退けるとされる妖怪「アマビエ」の絵を見てみてください。

緻密でリアルな背景に息を吞む人は多いのではないでしょうか。

岩の重なり具合や水面の揺れが細かく表現されています。

水木さんの本来の実力が垣間見える作品ですね。

ただ実は、見事な背景を描いたのは水木さんの弟子だったという説があります。

本格的に絵を勉強していた美大生を多く採用し、弟子にしていたそうです。

事実だとすれば、弟子が緻密な背景を担当していた可能性も高いですね。

もちろん水木さん自身が的確な指示を出していたことは間違いないでしょう。

その指示がなければ、いくら美大生でも、弟子の力だけで見事な背景を完成させるのは難しかったはずです。

すべてを水木さんの功績にしてはいけないかもしれませんが、抜群のセンスがある漫画家だったことは確かですね。

水木しげるの優れた弟子たち

名作誕生に貢献した、水木さんの優れた弟子たちを紹介していきましょう。

水木しげるの弟子①:土屋慎吾

1人目に紹介する弟子は土屋慎吾さんです。

東京デザインカレッジに在学、アシスタントとして水木さんに弟子入りしました。

『海の鎖』で漫画家デビュー後は青年誌や官能劇画誌などで活躍。

『お検査して』が発禁となってしまうなど苦難もあり、漫画家活動から離れ、似顔絵画家に転身しました。

愛知県犬山市の犬山城城下町で似顔絵を描いて、地域の人々に親しまれているようですよ。

水木しげるの弟子②:池上遼一

池上遼一さんは看板屋で働きながら漫画家を目指して活動していました。

1962年に漫画短編誌「魔像」に『魔剣小太刀』が掲載され、貸本漫画家としてデビュー。

1966年には「月刊漫画ガロ」に読切作品『罪の意識』が掲載されます。

この作品を読んだ水木さんのスカウトによって上京し、弟子入りしました。

弟子入りするまで水木作品を読んだことがなかったそうです。

水木さんの方が依頼したという背景から、才能に恵まれた人材だったことがうかがえますね。

その後は約1年半、水木さんのアシスタントを担当し、メジャーデビューを果たします。

『男組』や『HEAT 灼熱』などの代表作がある漫画家です。

水木しげるの霊感エピソード

水木さんは妖怪漫画を描いてきましたが、自身も幼少期から霊感があり、妖怪らしき存在を身近に感じていました。

有名なエピソードは、戦時中、激戦地のバイエンに派遣されたときのこと。

敵の奇襲により仲間を全員失い、水木さんはただ1人生き残ってジャングルを逃げ回ることになりました。

夜にジャングルの中を逃げていると、突然、目の前に巨大なやわらかい壁が立ちふさがったそうです。

そのとき睡魔に襲われた水木さんは、その場で眠り始めました。

朝になり目を覚ますと、自分が断崖絶壁にいることに気づきます。

前夜にそのまま真っ直ぐ進んでいれば、転落死していたはずでした。

水木さんは壁の形をした妖怪「ぬりかべ」に救ってもらったと考えました。

そのため作品でぬりかべを描くときは、必ず善良な性格に描いていたそうです。


また命がけで逃げ回っていたとき、水木さんの母親が、岩場を走る水木さんの姿を夢で見ていたといいます。

水木さんの霊感は、母親譲りだったのですね。

 

水木しげるはマイペースな性格

戦場で逃げ回り、爆撃で左手を失うという壮絶な体験をした水木さん。

それでも心が折れなかったのは、マイペースな性格だったためのようでした。

常に楽観的で、どれほどつらいことがあっても、乗り越えられる強さを持っていました。

もっともつらかったのは、戦時中の食糧不足。

大食いで、甘いものや揚げ物が大好きだったため、好きなものを食べられない時期は「地獄」だったそうです。

おそらく「終戦後に好きなものを食べる」という夢を抱いて、過酷な戦時中を生き抜いたのでしょう。

水木しげるが天才的な理由

水木さんは高等小学校に在学中から、絵画の才能を開花させていました。

日によってはすさまじい集中力で、1日中絵ばかりを描いていたそうです。

鉛筆かクレヨン、紙があれば、どのような状況下でも絵を描きました。


絵物語を描くこともあり、やがて水木さんは天才的なストーリーテラーとして知られるようになります。

水木さんは絵の完成度そのものよりも、ストーリーの濃さを重視していました。

絵を描きながら、キャラクターたちをどう動かすか常に考えていたのでしょう。

読み手を一瞬にして作品世界の中へ引きこむ語り手としての手腕は、まさに天才的でした。

水木しげるの自画像の変化

絵よりもストーリーを重視していたとはいえ、水木さんは絵の才能にも恵まれていました。

才能は自画像の変化からうかがえます。

水木さんの自画像は、メガネを掛けた面長の男性のイメージが強いかもしれません。

自身の顔を少しさえない印象のキャラクター風に描いていたのです。

しかし若い頃に描いた自画像は、多くの人が知るものとはかけ離れていました。

若い頃には本格的な油絵の自画像を描いていたのです。

やはり幼少期から絵を極めてきただけあり、水木さんは高い画力の持ち主だったのです。

あえてキャラクター風の自画像を積極的に描くことで、親しみやすい人柄をアピールしていたに違いありませんね。


水木しげる、左腕を麻酔なしで切断。戦争エピソードと階級。若い頃の壮絶体験

水木しげるは調布で生活。深大寺の鬼太郎茶屋、自宅と生家。島根ではなく鳥取境港が故郷

水木しげるの睡眠時間は10時間。好きな食事で長生き&健康の秘訣。死因は多臓器不全

水木しげるの妻・布枝の身長と性格。夫妻の娘と孫、長寿の水木三兄弟

武良布枝の身長は165cm。若い頃から現在まで。弟は溺死、生家は商家

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