『おそ松くん』や『天才バカボン』などのギャグ漫画で一世を風靡した赤塚不二夫(あかつか ふじお)さん。
2008年に72歳で亡くなり、葬儀では生前交流のあったタモリさんが弔辞を読みました。
その弔辞が白紙だったと言われていますが、本当だったのでしょうか。
タモリさんの弔辞の詳細を確認しつつ、赤塚さんとビートたけしさん、所ジョージさんの関係に迫ります。
赤塚不二夫のプロフィール
本名:赤塚藤雄
生年月日:1935年9月14日
死没:2008年8月2日
身長:不明
出身地:満州国熱河省(現在の中華人民共和国河北省承徳市灤平県と北京市密雲県古北口の境界線)
最終学歴:四ツ合中学校(現在の新潟市立潟東中学校)
赤塚不二夫の葬儀でタモリの弔辞が白紙だった理由
赤塚さんは2008年8月2日、肺炎により72歳で亡くなりました。
5日後の8月7日、東京都中野区にある宝仙寺で告別式が行われ、タモリさんが弔辞を読み上げて話題となります。
赤塚不二夫へ向けたタモさんの弔辞はほんと凄かった…。
ほとんど白紙で全部その場で出た言葉(文)だったんだよね#徹子の部屋#タモリ#黒柳徹子 pic.twitter.com/JRidUQbfrb— ティセラ (@merusepi00q) December 28, 2021
タモリさんは芸能界にデビューする前から、その才能を見抜いてくれた赤塚さんの庇護を受けていました。
2人の出会いは、タモリさんが下積み時代に新宿でライブを行ったときのこと。
赤塚さんがタモリさんを気に入り、自分が関わっていた番組に出演させることを約束し、マンションに住まわせたのです。
タモリさんは金銭の援助を受けただけでなく、高級マンションや車を好きなだけ使わせてもらっていました。
売れない芸人でありながら、有名漫画家から面倒を見てもらい、贅沢な生活を送っていたそうです。
タレントとして知名度が上がってからも赤塚さんからアドバイスを受けており、交流を続けていました。
2人の関係は師弟でも友人でもなく、不思議なきずなで結ばれていたようです。
一緒に木登りをしたり、お酒を飲んだりすることもありました。
あるお酒の席では「仮想葬儀」という遊びを楽しんだそうです。
赤塚さんの葬儀が営まれているという設定で、タモリさんが弔辞を読み上げました。
結果的には実際の葬儀でも、タモリさんが弔辞を読むことになったのです。
実際の葬儀の弔辞では恩人に向けて、
「私の父のようであり、兄のようであり、そして時折見せる、あの底抜けに無邪気な笑顔は、はるか年下の弟のようでもありました」
と述べています。
引用元
日刊スポーツ【「私もあなたの作品…」タモリの弔辞全文】
https://www.nikkansports.com/entertainment/news/f-et-tp0-20080807-393012.html
最後にはタモリさん自身のことを「あなたの数多くの作品の1つ」と述べて、弔辞を締めくくりました。
物心両面で支援してくれた赤塚さんを、「タモリ」という存在を創り上げてくれた恩人と考えていたことがうかがえる言葉です。
この最後の言葉は新語・流行語大賞にノミネートされ話題となりました。
参列者は見事な弔辞に聞き惚れたに違いありませんね。
恩人への真心が伝わってくる上質な弔辞を読み上げる間、タモリさんは何度も手にした紙を見返していました。
涙が溢れそうになるのをこらえていたため、紙に書かれた内容を確認しないと読み間違えてしまいそうだったのかもしれません。
しかし後日、タモリさんが手に持っていたのは白紙だったことが判明したのです。
タモリさんは、白紙の弔辞は歌舞伎の人気演目『勧進帳』から思いついた案だったと明かしています。
当時のマネージャーの名前が「富樫(とがし)」だったため、富樫という役人が登場する『勧進帳』を連想。
歌舞伎では、源頼朝から追われる源義経と従者・武蔵坊弁慶が関所を通るとき、富樫から勧進帳を見せるよう言われます。
勧進帳とは寺院の修理のために寄付をしてくれた人の名前が書かれた書類です。
弁慶たちは山伏の姿に変装しており、本物の山伏であれば勧進帳を持っているはずでした。
しかし弁慶は勧進帳を持っていませんでした。
そこで弁慶は、偶然持っていた巻物を開き、アドリブで勧進帳の内容を読み上げ、危機を脱するのです。
タモリさんは『勧進帳』の弁慶を真似して、何も書かれていない紙を手に、すばらしいアドリブを披露したということでした。
赤塚不二夫に向けたタモリの弔辞には台本があった模様
しかし本当にタモリさんの弔辞が白紙だったか、疑わしいという意見もあります。
あまりに見事な表現がちりばめられており、とてもアドリブとは思えないためです。
読み上げているときも言いよどまず、サラサラと言葉をつなげていましたから、あらかじめ文章を用意していたとしか思えません。
起承転結も完璧で、論理的な整合性もありました。
先ほど紹介しましたが、タモリさんは赤塚さんの生前、「仮想葬儀」という遊びで弔辞を読み上げていたはずです。
遊びの質を高めるため、ある程度まとまった弔辞を書いていた可能性は十分あります。
さらに2人は生前、先に亡くなった方が、相手の葬儀で弔辞を読むことを約束していたのです。
赤塚さんが亡くなる数年前、2人はそれぞれの妻も連れて、4人で伊豆へ温泉旅行に出かけていました。
そこでお互いに向けて弔辞を披露したのです。
2人が読み上げた音声を、赤塚さんの奥さんがぬかりなく録音。
その音源を聞いた人によると、タモリさんが実際の葬儀で読み上げた弔辞と、骨格はほぼ同じだったそうです。
おそらくタモリさんは、あらかじめ用意していた弔辞を暗唱していたのではないでしょうか。
台本を用意し、しっかり内容を覚えたうえで、葬儀では白紙を手にして『勧進帳』の弁慶を真似して見せたのでしょう。
面白い演出が大好きだった赤塚さんのために、最後のネタを届けるつもりだったのかもしれません。
たけし、所ジョージとの関係は飲み友達
お笑いが大好きだった赤塚さんは、タモリさんのほかにも、ビートたけしさんや所ジョージさんと交流がありました。
たけしさんと赤塚不二夫さんの対談。たけしさんはトムとジェリーの柄の服を着てます。 pic.twitter.com/OiZ4B31i9I
— 江田由紀浩 (@eda_yukihiro) May 6, 2019
赤塚不二夫の「ギャグゲリラ」に登場する、タモリもどきと所ジョージもどき。#赤塚不二夫#タモリ#所ジョージ pic.twitter.com/eGXmwzNtx8
— 鴨々川 (@njghnjghnjgh) April 3, 2021
よく赤塚さん、たけしさん、所さんで新宿の寿司屋「ひとみ寿司」に行き、お酒と冷やしキャベツを飲み食いしながら騒いでいました。
ドキュメンタリー映画「マンガをはみだした男〜赤塚不二夫」。1970年代末、新宿二丁目の毎晩の宴会は今はなき『ひとみ寿司』。つまみは、寿司の注文はNG、生キャベツに塩と味の素が基本。酒は焼酎白波のほうじ茶割。数十人にご馳走した。 pic.twitter.com/g3vQt8clJM
— 坂本雅司 (@griot_sakamoto) July 31, 2016
真面目な性格だった赤塚さんは、普段は破天荒な行動を控えていたようです。
そのため大好きなお笑いタレントたちと一緒にいるときだけは、羽目を外して楽しんでいたのでしょう。
「ひとみ寿司」では、あえてお寿司を頼まず、冷やしキャベツをつまみにしていました。
これもまた赤塚さん流のギャグだったに違いありませんね。
赤塚不二夫の死因は肺炎、晩年は植物状態だった。猫の菊千代が人気、お墓は八王子に
赤塚不二夫の妻はアシスタント&娘は美術家。自宅は新宿落合。前妻もアシスタント、弟子も有名
赤塚不二夫、トキワ荘での下積み。藤子不二雄や手塚治虫とのエピソードとは
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