寺田ヒロオの妻は中村八大の妹。晩年は茅ヶ崎で引きこもり。死因&楳図かずおとの関係は?

のちに大物の漫画家となる青年たちが共同生活を送っていたアパート・トキワ荘。

手塚治虫さん、赤塚不二夫さん、石ノ森章太郎さんなど、のちの巨匠たちが切磋琢磨しながら夢を追っていました。

名だたる漫画家たちのリーダー的存在だったのが、寺田ヒロオ(てらだ ヒロオ)さんです。

野球がうまく、漫画家たちから「テラさん」と呼ばれた頼もしい兄貴分でしたが、結婚後に引退し不遇の晩年を送ることになりました。

今回は寺田ヒロオの妻、晩年の神奈川県茅ヶ崎市での引きこもり生活、死因、楳図かずおさんとの不仲説の詳細に迫ります。

寺田ヒロオのプロフィール

愛称:テラさん

本名:寺田博雄

生年月日:1931年8月4日

死没:1992年9月24日

身長:不明

出身地:新潟県西蒲原郡巻町(現在の新潟市西蒲区)生まれ、新発田市育ち

最終学歴:新潟県立新発田高等学校

寺田ヒロオの妻は中村八大の妹

1956年に寺田さんは、少年漫画誌「野球少年」で『背番号0』の連載を開始しました。


1959年には少年漫画誌「週刊少年サンデー」で『スポーツマン金太郎』の連載も開始し、野球漫画に定評のある人気漫画家となります。

寺田作品がきっかけとなり、野球の試合中にアナウンサーのコメントを入れるようになったとも言われています。

トキワ荘の大黒柱であり、大人気漫画家でもあった寺田さんでしたが、結婚を機にトキワ荘を退去。

妻は昭和を代表する作曲家・中村八大さんの妹でした。

中村さんと言えば『上を向いて歩こう』『こんにちは赤ちゃん』などの大ヒット曲で知られる大物作曲家ですね。

漫画家仲間たちは結婚式で初めてそのことを知り、驚いたそうですよ。

結婚式2次会では皆で『上を向いて歩こう』を歌ってお祝いしました。

しかし寺田さんは、結婚を機に幸せになるどころか、不遇な晩年へと突き進むことになります。

1957年6月にトキワ荘を退去してからも、しばらくはハードな仕事をこなしていました。

しかし週刊漫画誌が隆盛するとともに、仕事の速度を上げる必要に迫られ、徐々に追い詰められていきました。

『スポーツマン金太郎』の終了後は、燃え尽き症候群の症状が出てしまったのか、憂鬱な気持ちになっていたそうです。

当時の寺田さんは「もうへとへと。仕事をやめたい」と発言したとされています。

さらに1960年代からは劇画ブームの影響により、よりリアルで刺激的な物語が求められるようになりました。

寺田さんの正統派の児童向け漫画は、やがて時代から取り残されていったのです。

弟分だった手塚治虫さんや赤塚不二夫さんらが成功していく中、徐々に寺田さんは人を遠ざけるようになっていきました。

寺田ヒロオは晩年、茅ヶ崎で引きこもる

寺田さんは劇画ブームに強い反感を示して、仲間たちと会う度に批判をくり返していました。

仲間たちの前にいたのは、かつての頼もしい兄貴ではなく、批判ばかりを口にする「時代に取り残された男」でした。

面識がない有名劇画作家に自分の漫画を送り付けて「こういう漫画を描きなさい」と諭したこともあったそうです。

頑固で生真面目な性格がたたり、時代の変化についていかれなくなった寺田さんは、徐々に人々から遠ざかるようになります。

少しずつ仕事のペースも落としていた1964年、『暗闇五段』が終了するとともに週刊誌の連載から撤退しました。

その後の活動の場は小学館の学習雑誌でしたが、作風が児童漫画らしくなくなっていき、批判を浴びるようになってしまいます。

ついに1976年、漫画家業から完全に引退しました。

手塚さんをはじめ仲間たちは「少し休んでから復帰」するようくり返し提案したものの、寺田さんは耳を貸さなかったそうです。

神奈川県茅ヶ崎市の自宅の部屋に引きこもり、アルコール依存症となってしまいます。

妻とも顔を合わせなかったため、妻は食事を部屋のドアの前に置いて、食べ終わった食器を片づけていたそうです。

寺田さんはそのまま16年間、表舞台に出ることなく、1992年に亡くなりました。

ただ1990年6月23日、一度だけかつてのトキワ荘の仲間たちを自宅に呼び、宴会を開いたことがありました。

集まったのは藤子不二雄Ⓐさん、藤子・F・不二雄さん、石ノ森章太郎さん、赤塚不二夫さん、鈴木伸一さん、つのだじろうさん。

仲間たちは、突然招待してくれたかつての兄貴の姿を久しぶりに見て、嬉しい驚きを感じたことでしょう。


寺田さんは、終了後に去っていく仲間たちに手を振り続け、「もう思い残すことはない」と家族に話していたそうです。

翌日に藤子Ⓐさんが電話でお礼を伝えようとしましたが、寺田さんが電話口に出ることはありませんでした。

妻を通して「今後は一切、世間と関わらない」という言葉だけを伝えたそうです。

時代に取り残され、社会に適応できなくなってしまった以上、仲間たちにこれ以上の迷惑をかけたくなかったのではないでしょうか。

ちなみに鈴木さんは寺田さんに、宴会の様子を撮影したビデオのコピーを進呈したそうです。

寺田さんは晩年、そのビデオをくり返し視聴していたとされています。

その様子から、仲間たちを恋しく思いながらも「彼らの足手まといにはなりたくない」と考え、自ら関係を断ち切ったことがうかがえます。

寺田ヒロオの死因は

寺田さんは晩年、自宅の離れに暮らし、母屋で生活する家族と顔を合わせることはありませんでした。

朝からお酒を飲み、妻が1日3回届ける生活を継続。

1992年9月24日、朝食が置かれたままになっているのを不審に思った妻が部屋に入ると、寺田さんは息絶えていました。

晩年は身体にあらゆる不調を抱えていたものの、病院に行くことはなかったそうです。

妻は「この人は死にたいんだ」と考え、説得することも諦めるようになっていました。

死因はアルコール中毒による衰弱死だったとされています。

高い実力を持ちながら、時代に適応できなかった不器用な漫画家の、あまりにも悲しい最期でした。

寺田ヒロオは楳図かずおの作品を批判したらしい

寺田さんは後進の漫画家たちの作品を次々と批判し、嫌われるようになっていきました。

批判された漫画家の1人とされているのが、怪奇漫画の第一人者である楳図かずおさんです。

藤子不二雄Ⓐさんがトキワ荘の様子を描いた青春漫画『愛…しりそめし頃に』には、寺田さんがある恐怖漫画の連載を中止させようとするシーンがあります。

作中の寺田さんが連載を中止させようとしていたのは『恐怖魔人ゾンビラス』という作品です。

『愛…しりそめし頃に』のストーリーは実話ですが、実際の作品名や人物名を多少改変して、固有名詞が特定されないようになっていました。

『恐怖魔人ゾンビラス』の元ネタとされているのが、楳図さんの代表作『半魚人』です。

楳図さんは『半魚人』の連載を中止させられそうになった恨みから、寺田さんをモデルに悪役を生み出したとされています。

寺田さんがモデルとされている悪役は『漂流教室』に登場する関谷久作です。

表向きはパン屋兼学校給食の納入業者ですが、暴力的で幼児性が強い性格の持ち主で、暴走しやすいキャラクターです。

身の危険を感じると命乞いをする小心者として描かれており、正直、あまり魅力を感じられない人物。

もし寺田さんをモデルとして関谷を生み出したのであれば、楳図さんは寺田さんにかなりの恨みを抱き、とことん醜い人物として造形したのでしょう。

時代の変化に適応するのは難しいものです。

寺田さんの生涯に触れると、心配してくれる仲間を拒絶せず、「ときには誰かを頼ること」が大切であることを感じずにはいられません。


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