赤塚不二夫、トキワ荘での下積み。藤子不二雄や手塚治虫とのエピソードとは

赤塚 不二夫(あかつか ふじお)さんはギャグ漫画界のレジェンドとして尊敬され続けています。

数あるエピソードでも多くの人から関心を集めているのが「トキワ荘」で過ごした日々でした。

今回はトキワ荘での赤塚さんや一緒に過ごした藤子不二雄さんらとの関わり見ていきましょう。

赤塚不二夫のプロフィール

本名:赤塚 藤雄(あかつか ふじお)

出身地:満州国(熱河省)

生年月日:1935年9月14日

没年月日:2008年8月2日(72歳没)

代表作品:「おそ松くん」 / 「天才バカボン」など多数

トキワ荘で下積み時代を送った赤塚不二夫

まずは赤塚不二夫さんがトキワ荘で過ごした日々について見ていきます。

赤塚さんは1954年頃に父親に誘われる形で新潟から上京し、江戸川区にあったエビス科学工業所で働きながら「漫画少年」での連載をこなす二刀流の生活を送っていました。

その時の作品が石ノ森章太郎さんの目に留まり、同氏が主宰する「東日本漫画研究会」で一緒に同人活動をして関係を深めていったそうです。


1954年3月に高校を卒業して上京した石ノ森さんがトキワ荘に入居することになり、赤塚さんもアシスタントという形で一緒に引っ越したという運命的な春を迎えました。

当時の生活は少女漫画の連載を細々とする程度だったことから大変貧しかったそうで、一時は廃業して飲食店の店員になろうと真剣に悩んだほどだったそうです。

そんな時、トキワ荘のリーダー的存在だった寺田ヒロオさんから金銭援助を受けつつ、石ノ森さんに映画代をおごってもらって芸術感覚を磨くなど我慢の日々が続きました。

少し意外な話ですが、当時の赤塚さんはトキワ荘きっての美男子だったと言われており、のちに公開された青年時代の写真は良い意味で多くのファンに衝撃を与えたそうです。

どちらかと言えば晩年のぽっちゃりとしたイメージが強いので驚いた方も多いでしょうね。

苦難を乗り越えて以降は「少女クラブ」や「まんが王」に作品が掲載されるようになったこと、加えてアシスタントの稲生登茂子さんと結婚をするため1961年10月にトキワ荘を出ました。

赤塚さんがトキワ荘で過ごした約5年半という年数は住んでいた人の中でも割と長く、藤子不二雄さんの7年や石ノ森さんの5年7ヶ月に次ぐ最長記録だそうです。

もっとも、赤塚さんの性格だと結婚がなければ立ち退きの日まで住んでいたかもしれませんね。

トキワ荘での赤塚不二夫と藤子不二雄のエピソード

トキワ荘には数多くの鬼才・天才が集まりましたが、その中でも同時期を過ごした赤塚不二夫さんと藤子不二雄さんの間にどのようなエピソードがあるか気になりますよね。

さぞ素晴らしい漫画談義や技術についての議論が行なわれたと思いきや、藤子不二雄(A)さんによると漫画の話はせずに飲み会や世間話で盛り上がっていたそうです。


とは言っても同じ屋根の下で多くの漫画家が生活をしているので、お互いの作品を見たり手伝ったりすることで自然と影響を受けたことは間違いないでしょう。

ちなみに、当時の赤塚さんらは焼酎をサイダーで割った”チューダー”を愛飲していたそうです。

多くの若手漫画家がチューダーと粗末なつまみを囲んで何を話していたか気になりますが、漫画家はシャイな人が多いので詳細について明らかになることは無いでしょう。

赤塚さんと藤子さんについて語り継がれるような話は少なかったですが、長い間を一緒に過ごしていたので日々の生活自体がエピソードの連続だったのかもしれませんね。

手塚治虫との関係や教えられた「立派な漫画家へなる方法」とは?

最後に赤塚不二夫さんと手塚治虫さんのエピソードについて見ておきましょう。

手塚さんは「日本漫画界の祖」として説明不要の存在であり、赤塚さんや藤子不二雄さん、石ノ森章太郎さんや横山光輝さんが漫画家を目指すきっかけとなった偉人です。

トキワ荘と言えば手塚さんの名前が真っ先にあがりますが、実際に住んでいた時期は1953年初頭から1954年10月までなので赤塚さんと同じ時期に生活はしていません。

それでも手塚さんは忙しい合間を縫って若手漫画家と交流し、赤塚さんらに”一流の映画や小説を見なさい、そして一流の音楽を聞きなさい”という教えを説いています。

その影響もあってか若手漫画家は苦しい生活費の中から娯楽費を捻出したそうですが、漫画以外の一流に触れたことで一皮も二皮も剥けたと赤塚さんは振り返っていました。

また、赤塚さんらが立ち上げた「新漫画党」にも関心を寄せており、草野球チーム「エラーズ」の試合を見に行くなど巨匠らしからぬ気さくさを見せています。

ちなみに、手塚さんは「おそ松くん」に登場するイヤミのギャグ「シェー!」を大変気に入っていたそうで、自身の作品「火の鳥」などでも使用をしていました。

反対に赤塚さんも手塚さんのアシスタントをしていた頃に”赤塚不二虫”というペンネームで「鉄腕アトムなのだ!」というパロディ漫画を発表しています。


一連のエピソードを見る限り、多くの若手漫画家たちは手塚さんの作品だけでなく”子供のように純粋で親しみやすい性格”に魅了されたとも言えるでしょう。

手塚さんの教えである「一流に触れること」も大事ですが、もしかすると子供の良さを持ったま大人になることができた漫画家こそが大業を成せるのかもしれません。

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