『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』などの作者で、「ギャグ漫画の王様」と呼ばれた赤塚不二夫(あかつか ふじお)さん。
生涯で2度結婚しましたが、2人の妻同士は特殊な関係で結ばれていたようです。
今回は、元スタイリストの妻、娘さん、落合にある自宅、元アシスタントの前妻について順に確認します。
加えて、活躍した弟子も紹介します。
赤塚不二夫のプロフィール
本名:赤塚藤雄
生年月日:1935年9月14日
死没:2008年8月2日
身長:不明
出身地:満州国熱河省(現在の中華人民共和国河北省承徳市灤平県と北京市密雲県古北口の境界線)
最終学歴:四ツ合中学校(現在の新潟市立潟東中学校)
赤塚不二夫の妻は元スタイリスト&アシスタント
赤塚さんの妻として知られる赤塚眞知子さんは、元スタイリストの女性でした。
1949年に生まれ、29歳を迎える年に赤塚さんのアシスタントとなりました。
1985年、なんと赤塚さんの前妻から彼との結婚をすすめられ、2年後に結婚。
2002年からは夫の会社である「フジオ・プロダクション」の社長となります。
竹書房文庫 #おそ松くん 第17巻。ハッスル通信17号は、昭和63年から平成元年まで放映された #スタジオぴえろ 制作のテレヴィアニメ第2作を特集。制作当初の設定資料を公開。巻末の解説を書いたのは、赤塚不二夫の凄さを知らないまま結婚してしまっていた「天才の親友」赤塚眞知子氏。 pic.twitter.com/ICcyaxNk5v
— 翔也 (@gracilistepuer) January 3, 2018
同年4月に赤塚さんが脳内出血により倒れてからは、献身的に看護をしました。
2004年以降、赤塚さんは意識がなくなり、植物状態に陥っていたそうです。
しかし2006年6月には、眞知子さんがくも膜下出血により倒れてしまいます。
手術を受けて回復しましたが、7月に容体が急変してしまいました。
2006年7月12日、57歳の若さで亡くなります。
残念ながら赤塚さんは意識がなかったため、最期まで妻の死を知ることはありませんでした。
妻の死から2年後の2008年8月2日、意識不明のまま72歳で肺炎により亡くなりました。
赤塚不二夫の娘は赤塚りえ子
赤塚さんには前妻との間に、赤塚りえ子さんという娘さんがいました。
女優を経て、現代美術家として活動し、「フジオ・プロダクション」では社長も務める女性です。
『おそ松くん』に登場する「リエちゃん」のモデルとされています。
【Instagram】
フジオロック主催者の赤塚りえ子さんと〜〜!これが本場のシェーか…やっぱり、並ぶと私のは付け焼き刃のシェーだと身に染みて分かります。さすがのシェー…!#赤塚りえ子 さん #シェー #フジオロック #赤塚不二夫 さん #のんhttps://t.co/3t1jSJIF8J pic.twitter.com/Vk8zsbrz1B— のん official (@non_dayo_ne) August 4, 2018
りえ子さんは1965年3月11日に生まれ、8歳のときに両親の離婚を経験しました。
母に引き取られたものの、赤塚姓のまま暮らしています。
専門学校で映像芸術制作を学んだものの中退し、「唄啓劇団」に参加して舞台女優となります。
同劇団の時代劇に出演後、ギャグ劇団「東京ギャグポンプ」に参加しました。
1989年、唄啓劇団のスポンサー会社の施設でアルバイトをしていたことで出会った、同社の新入社員と結婚。
しかし1992年に離婚すると、2年後に英語を学ぶためイギリスに渡りました。
1998年にロンドン大学ゴールドスミス・カレッジのファインアート科に入学し、芸術を学びます。
2001年の卒業制作展で作品が評価され、ギャラリーにスカウトされた後は、数々の展覧会を開催しました。
英語と芸術に対する勉強意欲を武器に、見事に国際的な芸術家となったのです。
2002年に4歳年下のイギリス人男性と再婚します。
2005年にはイギリスの永住権を取得しました。
しかし翌年に父の後妻である眞知子さんが亡くなり、急きょ帰国します。
その後は眞知子さんから「フジオ・プロダクション」社長の座を引き継ぎました。
変化に富んだ特殊な人生を送ってきた女性ですね。
きっと芸術分野では、このように刺激的な人生を送った方が、より仕事に生かせる経験を積めるのではないでしょうか。
赤塚不二夫の落合の自宅
赤塚さんの自宅は、東京都新宿区中落合1丁目3番地15号です。
自宅は下落合駅から徒歩3分の場所にあります。
#gr813建物では無いですが故 赤塚不二夫先生の御自宅です。 pic.twitter.com/1fNbLU9RBS
— 荒井幹博 (@GaX8y5l9AF577Mp) September 18, 2020
愛着のある土地だったようで、1979年には映画『下落合焼きとりムービー』も制作しました。
中井駅周辺には、赤塚さんが通った飲食店が今でもいくつか残っているようです。
赤塚作品のファンは足を運んで、ギャグ漫画の王様の息吹を感じてみてはいかがでしょうか。
赤塚不二夫の前妻もアシスタント
赤塚さんの前妻は稲生登茂子さんです。
後妻の眞知子さんと同じく、アシスタントとして赤塚さんと交流を始めました。
1961年に結婚後も、夫の仕事をサポートし続けたことで知られています。
1961年10月23日 赤塚不二夫(26)・登茂子(21)結婚。 pic.twitter.com/GaYTkHQsW2
— 虫塚"KERA"虫蔵 (@pareorogas) February 16, 2018
登茂子さんは『おそ松くん』のギャグを考案し、作品に大きな影響を与えた女性でもありました。
夫の作品の大ヒットに貢献したものの、夫婦関係はうまくいかなかったようで、1973年に離婚。
しかし2人は離婚後も交流を続けています。
なんと登茂子さんは、赤塚さんの後妻となる眞知子さんに、元夫との結婚をすすめたのです。
1987年の結婚会見には、元妻でありながら保証人として、娘のりえ子さんとともに出席しました。
異例の事態だったものの、和やかな雰囲気の会見からは、赤塚家の人々の温厚さがにじみ出ていました。
登茂子さんは2008年7月30日、赤塚さんが亡くなる3日前に病死しています。
赤塚さんと2人の妻は、同時期に続けて亡くなったのです。
特殊な関係で結ばれた3人は、お互いが寂しくないよう、同じ時期に天国へ旅立ってしまったのかもしれません。
赤塚不二夫の弟子の作風
赤塚さんの弟子には、北見けんいちさん、とりいかずよしさん、土田よしこさんといった有名漫画家が数多くいます。
特に北見さんは映画化された『釣りバカ日誌』の原作者として有名ですね。
またドラマ化された『BARレモン・ハート』の原作者・古谷三敏さんも、赤塚さんの弟子の1人でした。
画像upのお許しが出たので
古谷三敏先生と北見けんいち先生、
レモンハートと釣りバカ日誌、現役執筆中の80越え70越えの大御所様!今誰よりも赤塚不二夫系、昭和作家の色々を知るレジェンド軍団
(仲間内の方々もオール70超え)が、いつ召されるかわらんからなんかやって、と気になった方連絡よろしく pic.twitter.com/BLzGC1nUgP— 横田守 mamoru yokota 半死半生 (@yokotamamoru) July 5, 2018
赤塚さんの弟子たちは、いずれもギャグ漫画というよりは、人情味ある味わい深い作品を多く発表しています。
弟子たちは師匠の親しみやすい人柄に触れたからこそ、読者が優しい気持ちになれる漫画を描くことができたのかもしれませんね。
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